この一年の皆様の蘭との生活は如何だったでしょうか。蘭作りも二十年・三十年、あるいは四十年・五十年となりますと、いっしょにいる時間が家族より長いかもしれません。「趣味が共通する友人は、家族や親戚より絆が深い」と本会の先輩がしみじみ語っていました。蘭を通じた人との出会いは人生のかけがえのない宝物だと思います。私も先輩方に蘭以外の多くのことを教わってきました。文字通り人生の先輩として、生きる知恵を学んだと思います。よきにつけ悪しきにつけ、世の中と人の姿を知りました。古稀に近くなって、人生を振り返りますと、山あり谷ありです。最も苦しかったのは十代です。青春期の心身の悩み、そして受験……。次は四十代、中間管理職で苦労した時期。目の前まっくらでした。しかしその時期のあとはそれぞれ平穏な時が続きました。定年後は最も充実した日々を過ごしています。蘭界も人生と同じ、今の苦しい時が過ぎればまたよい時がやってきます。「朝が来ない夜はない」といいますから、明るく楽しく心豊かな明日を信じて、がんばっていきましょう。
七月下旬に作曲家の平尾昌晃さんが亡くなりました。「生涯現役、生涯青春」「第二、第三、第四の青春がある」という言葉を残して逝きました。ロカビリーのスターから作曲家へ。レコード大賞作曲賞を受賞した翌年結核のために療養生活へ。しかしこの時に人の情に触れ、洋楽から故郷をテーマに作曲するようになります。以後、音楽学校開設その他「人のために」と心がけて、さまざまな活動をされました。すばらしい人生だったと思います。人の価値は生きている時より亡くなってからわかるものです。「生きている間は動物、死んで人は人間になる」とは確か文芸批評家の小林秀雄の言葉だったと思いますが、本当にそう思います。
現役であるということは常に心身を働かせていることであり、働くとは自分の活動を通して何か人のためになることです。青春とはよりよきものを求めて苦しみ悩むことです。そんなことを考えていると、NHKテレビで見た宮沢りえさんを思い出しました。「宮沢りえ」といえば『サンタフェ』という写真集で世間を騒がせたアイドル時代を思い浮かべますが、今や日本を代表する演技派女優です。日本アカデミー賞主演女優賞を受けています。舞台では演出家に様々な注文を受けます。でもその「要求が大きく高く難しいほど」、後で自分が満足できるそうです。「ハードルに大中小があったら間違いなく大を選ぶ」。ゴールはない。百点はない。もっと自分を疑え。上を目指せ!努力してどこまでも向上しようとする彼女の姿勢に打たれました。
蘭作りにも同じことが言えると思います。これでいいということはありません。この花が百点だなどというのは、思い上がりです。蘭栽培はその人の心の反映であり、花は自分の心を映す鏡です。生涯現役の心で、向上心を忘れずがんばっていきましょう。日野原重明さんの年まで、七十代の方は三十年、八十代の方は二十年あります。百歳はあっても百点はありません!
◎本花展
総合優勝 素 光
岩本 孝之
素光は土佐産の素心です。男性的で鋭さ勁さがあり、薩摩の白妙とはまた違った魅力があります。以前は高価で手が出ませんでしたが、本会の蘭友から棚入れできました。比較的強い花でよく芽が出て、花付きもよいです。難点は子房がやや短く固く、花がそりかえったり斜めになったりで、整いにくいことです。出品の前に手で調整しますが、なかなか言うことを聞いてくれません。今回もどうかしらと思っていましたが、初日より二日目の審査の時になって、落ち着いた感じで、見られるようになりました。この花が総合優勝するとは思ってもみませんでした。充分な出来とはいえませんが、花のよいところを見てくださったことに感謝いたします。ありがとうございました。
白花優勝 大 雄
宮崎 満
私の大雄は、古木2本を棚入れし、長年作っています。大雄にはいろんなタイプがあり、広葉で立葉、広葉で垂れ葉など、その坪採りで花型に違いがあると思われます。白妙系の花なので作上りし難い品種です。
以前は白妙系の花が多く出展されていましたが、最近は少なくなってきたと思います。
今回、私が出展した大雄は、まだ上作とは言えませんが、一層作上げして良い花を咲かせ出展したいと念じています。
紅花優勝 土佐茜雲
岩本 孝之
以前は日光などと並んで人気があった土佐の花です。蘭舎の目立たないところで、あまり気に掛けなかった(蘭に申し訳ない)のですが、ここ二年ほど急に大きな花を付けるようになり、見直しました。色合いもよく、花軸が少々曲がっていましたが、花が大きくすべて開花していたことがよかったのでしょう。古い名花にはやはりそれなりの魅力があります。
桃花優勝 北薩の誉
岩本 孝之
蘭を始めた頃は大変高価な花でした。今は手に入れやすくなりました。早咲きで、本会では早花展でよく出品されます。今回は花がやや遅く本花展にタイミングが合いました。木が強く、よく芽が出て、花付きもよい。たいへん作りやすい花で、主人の労によく応えてくれます。好きな花の一つです。ありがとうございました。
黄花優勝 姫百合
圓尾 榮
今回本花展の黄花の部で優勝した「姫百合」は土佐西谷産で、昭和四十六年の登録の花であるが、今日でも愛して育てる人が多い。新芽も出やすく、花付きもよい。四方咲きで花間もよく育てやすい花の一つである。今回出展した姫百合も作の出来はまずまずであったが、花色が本咲きに一歩及ばない気がしたが、黄花の出展者が少ないこともあり、優勝の栄を受けることが出来たと思う。
青々花優勝 清 水
宮崎 満
平成十二年、高知県の香南愛蘭展を友人と見に行ったところ、清水が総合優勝していました。この時、作ってみたい花だと思っていました。帰路に松山氏宅を訪れ、小木2本を入手しました。
本年やっと初花が咲きましたので出展した次第です。まだまだ本咲きではなく、上作に努める所存です。
更紗花優勝 龍 王
宮崎 満
龍王は、名の浦産で、日向の清美と同種です。今年の花は薮咲き気味に咲いたので入賞は期待していなかったのですが、大輪に咲いたことで評価されたと思われます。
青花優勝 青玉
林 淳浩
第四十六回寒蘭本花展示会で私の青玉が青花の部で優勝に選ばれ大変うれしく良き蘭友に恵まれたと思っています。この青玉は平成二十二年の寒蘭展の後宮崎氏の蘭室を見せてもらいに行った時帰りにこの花は良い花だから作ってみたらともらった蘭です。今年やっと花が六輪付き、出展出来るような姿になり、その青玉が優勝したことで宮崎氏に恩返しが出来たと思っています。これからも自分の身に合った楽しい蘭作りをしたいので、蘭友の皆様のご指導をお願いします。
文人作優勝 素豊
森江 潤二
素豊は宿毛市橋上町産の素心、豊雪で有名な田村豊氏の命名です。花付きが良く、たおやかな薄い中垂れ細葉で花軸節間の曲りと共に個性を表出する花である。今回の花は五輪、三輪の二軸を上げ、花軸のゆれ、葉の曲線、これらを見た時直管の鉢には似合わないと感じ、受け支える花器を急遽孟宗竹で作り、曲線と曲線の融合を計り三位一体を表現してみました。
一輪一輪の花に固執するのも良いと思いますが、文人作りはなお楽しいものである。
チャボ花優勝 忍者
渋谷 明義
私が出展した日向産「忍者」が優勝させていただき、ありがとうございました。今は亡き宮崎守雄様より購入する時に気難しい蘭ですよと言われ、栽培の指導をしていただきました。花を見るまで長い年月がかかりましたが、期待通りのチャボ花を咲かせてくれました。結果にはこだわらずに精一杯努力を続けていきたいと思います。
交配種優勝 阿波武蔵
宮崎 満
阿波武蔵は平成二十二年十一月、フラスコ出しを購入しました。苗木の頃は、弱々しく枯れるのではないかと不安でしたが、次第に作上がりしてきました。
今年初めて花芽が付き、良い花が上がれば出展するつもりでいたところ、期待どおりの花が咲いてくれました。
◎早花展
優勝 三世冠
立岩 信彦
「三世冠」は登場したころラベンダーと呼ばれ、その花色の面白さに魅力を感じたものでした。この木は、出品の前年に前会長の渋谷さんからいただいたもので、一作して開花したので報告がてら出品したところ、発色がよいとの評価で、優勝させていただきました。「三世冠」は舌無点であるとの指摘を受け、調べましたら、登録時の花はたしかに無点舌に咲いていたということです。いつか、この木に無点の花を咲かせたいものです。ありがとうございました。
◎春蘭展
相生園芸センター賞 清香
平崎 清志
「清香」は交配種(女雛×清姫)の赤花です。出展した花は四輪咲きで紅赤濃く円みを帯びて冴えがあり、葉上に抜け、見事に咲きました。
加西フラワーセンター賞 富岡素
岩本 孝之
私は中国蘭が好きで、色々集めてきました。この頃は春蘭といえば色花で、中国蘭などというと変わり者に思われそうですが、老文団素や竜子、珍蝶、西神梅など愛培しています。富岡素は二種類ありましたが、手放して今は一種類になりました。戸外で作っているせいか、大きくなります。花がかなり上がってよい時期に咲きました。
紅花金賞 篤姫
宮崎 満
篤姫は紅花の女雛と清姫の交配種です。今年は花芽が4輪付いたので、良い花が咲いてくれることを楽しみにしていました。花芽が伸びはじめてから花が咲き切ると、、最初に咲いた花茎が徒長して、バランスよく咲いてくれなかったことが少し残念に思っています。
朱金花部門 金賞 玉英
平崎 清志
「玉英」は古い品種ですが、私の好きな花です。色よく葉上に抜け、良く咲いてくれました。正面が少しずれていましたので、もう少し仕立て良くしたいと思います。
青花部門 金賞 福助
平崎 清志
「福助」は作上がりすれば双頭花に咲きます。本年は二輪が二輪とも双頭花に、四花が見事に咲いているように仕上がりました。
豆花部門 金賞 侘助
平崎 清志
「詫助」は古い品種です。二輪で葉上に抜け良く出来たと自負しています。
複色花部門 金賞 日輪
岩本 孝之
春蘭の色花で賞をいただくのは初めてではないかと思います。加温栽培をしたことがなかったのですが、去年から先輩の話を聞いて真似をし始めました。色出しでいえばもっといい花も出ていましたが、円い鉢がよかったのでしょうか。今度は紅花に挑戦したいです。
中・韓花 金賞 大富貴
渋谷 明義
今回中国蘭を四鉢出品させていただき、「翠一品」がよく咲いたと思っておりましたが、思ってもいない「大富貴」が受賞させていただき、ありがとうございました。「大富貴」は主副弁とも弁幅はとくに広く、内側に巻き、軸色が赤紫色で美しい大好きな花です。また、双頭花も珍しくないと聞き、今度はぜひ挑戦して咲かせてみたいです。
禅を勉強しているという友人に、昨年の「よたばなし」を見せたところ、「全ては心だという事が、何となく理屈では分かるが、まだピンと来ない。」という返事を頂いた。もちろん真剣に考えられた結論だとは思うが、予想していた通りの返答だった。それなりに解りやすく書いたつもりだが、書き急いだと言う念が残る。尤も誰であれ、書物だけで禅を理解するなどあり得ないが…。
確かに仏経典には「一切唯心造」(世界は心の作り出したもの)と書かれているが、そもそも心とは何かが分からない。正体のよく分からない心が全てと言われては益々分からない。それを理屈で考えるのだからもっと分からない。何も分からないのだからピンと来る筈がない。辛辣に言ってしまえばそうなるが、裏返しに読むと別のものが見えてくる。
何かを知るという事は、今の自分に不足しているものを身に着けることであり、発展的で正しいプラスの発想だ、その様にして人は進歩する。一方、心は元々備わっていたもので、獲得したわけではない。備わっていたものを獲得したもので量ろうとするから見えなくなる。「考える」とは「AはBではなくCでもない」と区別することだが、元々備わっていた心をバラバラに解体しても見つかるのは「部品」だけで、組み立て直したところで心は分からない。理解は事象を知る唯一の方法ではないのだ。
「何をバカな」と言われそうだが、例えばタンポポは空気を知らずに綿毛で空を飛ぶ。魚は水を知らずに泳ぐ。蘭は虫を知らずに咲く。量子パラドックスはそれ自体が矛盾であり、考えても解けない。全てが理性で解けると考えるのは事実を見ないからで、「我思う」後に獲得した知識で全てが解明できる筈がない。
「心と言う曖昧なものを議題にする事が間違い」と言われればその通りだが、ここで言う心は「人の感情」とか「日々の想い」ではなく、「認識をしている主体(我)」である。だから脳や心臓を解体しても主体は見つからない。一つの部品が全体を支配しているのでは無く、全体が一つとなって全ての部品を支配しているからだ。
「心を観る」と言うと内観とか深層心理かと思われるが、そうではなく、ただ静かに世界を見るだけだ。外界を見る事と内側を見る事(観照)は別だと言われそうだが、では外界とは何かと問いたい。「見たもの、聞いたこと、触れたもの」は外界か。主観を介さない外界は有りうるのか。理屈を止めてただ世界を見るほかに心を観る術がない。
一僧と西塔
ある僧が西塔にたずねた「問があればこそ答がある。問も答もないときはどうか?」西塔は言った「あんたは腐るのが怖いといいなさるのか?」
これをきいて師(百丈)は言った「西塔はどんなやつかといつも思っていたよ」その意味はときかれて師は「現象の世界は見えないものよ」と言った。
昔読んだ本の中の一節だが、ここでは現象の世界(外界)は見えないものとなっている。「現実は確かな外界として眼前にある、と言い切れるのか?」が問われている。外界と心の境界は皮膚や眼球の表面なのだろうか、それとも既に知る所を見ているだけなのか。
心を凡庸な概念で推し量り、禅と言う範疇に押し込める事は、出来なくは無いとしても正しくも無い。その様に考えるのは世間の誤謬である。禅は「心に理屈を当てはめること」ではなく、心を器から解き放つ事だ。
聞くところでは、AI(人工知能)が人間の知能を超えたという。絶対に忘れない知能は、人間では考えられない驚異的なロジックで正解するという。「考える」という人間の特技で機械に勝てなくなった。当然これを新たな脅威と考える向きもある。しかし、どんなに優れた知能でも「主体」は存在しない。唯のON/OFFだけである。ONに特別な意味は無い。
もう一度「心とは何か」を問いたいと思う。生まれる前から存在する「主体」とは誰の事かと。もし、その「主体」が仏なら、「今ここに私が存在する」理由がない。また、仏にとって既知の事柄を、今更再認識する必要も無い。やはり「主体」は私である。自身の存在理由を「虚無」「虚仮」「煩悩」と切り捨てるのが「悟り」である筈はない。「不殺生戒」を説く仏教が、主体を殺せと言う筈もない。
結局、分からないのは禅でも仏でも心でもなくて、「今ここにいるこの私」である。今が何時で、ここが何処で、私が誰か、さえ分かれば全てが解ける。それ以外は心に吹き寄せられた只のゴミなので、禅も仏も勢いよく掃き出すべきだ。方法は簡単で、「只、今、ここに居る」だけだ。
春蘭に夕べの光飯を炊く
春蘭に夕日が当たる。それを眺めながら一人暮らしの夕食準備。しみじみとわびしい気分。春蘭には夕日が似合うように思う。
老いどちの蘭に集ひて日永かな
春蘭展の会場、そろそろしまいごろ。お茶を飲みながら歓談する。蘭友とのひとときが一番楽しい。
美女の名を冠し蘭花のすがれゆく
楊貴妃や西施、小町など蘭には美女の名前が付けられている。花が枯れてゆくのは美女が滅んでゆくようで悲しい。
素心とは汚れなきこと蘭の夢
素舌の蘭には独特の清潔さ、気品が漂う。欲にかられてあくせくする人間が恥ずかしい。
蘭あまた﨟長けて墨引くもあり
「淡墨」(あわずみ)という、ごく薄い緑の花弁にうっすら墨色をのせる花がある。昨年冬二ヶ月咲いていた。美しく気品がある女性のようだった。
蘭の葉の冬の光を愛ほしむ
冬の柔らかい光が蘭の葉に当たっている。それを見ていると人の何もかもが許せる気持ちになる。仏様のように、慈しみの心で。
源氏一名馬の寺やほくり咲く
私の家(淡路)の近くにぜんべ池という池がある。 このほとりに昔善兵衛さんが住んでいて、名馬を育て源頼朝公に献上した。これが源氏一の名馬となって、宇治川合戦でこの馬に乗った佐々木髙綱が一番乗りの功を立てた。この馬の銅像が淡路島北部の開鏡観音寺に建てられている。
このぜんべ池は私の持ち池で、その名を取って、手作り公園に「ぜんべえの里」と名付けた。約二ヘクタールの里山公園である。今「癒やしの里」に整備中。関西寒蘭会の方も何人か来られた。こちらへお越しの節はぜひいらしてください。
*ほくり 春蘭のこと
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関西寒蘭会会誌編集部
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