おのぶ 悲恋蔦沢の民話より
中西 昭彦
地球温暖化の影響か、猛暑続きの毎日ではありますが、蘭舎の下に打ち水をしてやったり、肥料をマグアンプK以外にはまったく遣らないで水のみをザーザーと遣ったりしていたところ、思っていた以上に上作に育ってきました。この時期の新芽の美しさ、瑞々しさが大好きで、飽きもせず眺めている毎日です。春蘭もこの頃手を伸ばしているところですが、この時期の寒蘭の新芽の魅力には遠く及ばないように思います。
さて、今回も蘭外で申し訳ないと思いますが、宍粟市山崎町蔦沢に伝わる民話の中から、“おのぶ悲恋”という話を紹介したいと思います。これは平成元年8月に発行された“蔦沢の民話集”(350部限定版)の中のもので、語り 矢野寅之助、筆者 小西優 両氏によるものです。
延ヶ滝由来記 おのぶ 悲恋
蔦沢地区の上の下部落にある、河原山川の上流に延ヶ滝(信ヶ滝)というなかなか見事な滝があります。四十年ほど前までは、もっと素晴らしい姿でしたが、今の県道が出来たその工事で埋まり、以前に比べると少し淋しい滝になりました。この滝がなぜ延ヶ滝といわれるようになったのか、それにはこんな悲しい話が都多の里に昔より伝わっています。
それは今から何百年も前のことでしょう。この川の滝より五百米位上流の傍らに、野の隅という平地があります(現在の大国牧場です)。ここに昔一つの集落があったそうです。(砂金を採る人々が住んでいた、又は木地屋を職とする人々が住んでいたと、二つの説がありますが、私は木地屋説をとります。)
この村に一人の若者がいました(名前は伝わっていません)。若者は母親と二人で暮らしていました。この若者が或る時、友達と室(むろ)の明神様にお参りをし、其の時、室の遊女街で“おのぶ”という若い遊女と知り合いました。“おのぶ”は、まだ若く気の優しいおとなしい女でした。二人はすっかり好きになり、“おのぶ”のつとめの年季が明け、自由の身になったら夫婦になろうと、固い約束をしました。そして若者は野の隅に帰りましたが、おとなしい若者は、“おのぶ”のことを恥ずかしくて母親に話すことが出来ませんでした。それがこの悲劇の起こる原因になりました。
やっと長いつとめの年季が明けて、“おのぶ”は自由の身になりました。若者との約束を信じていた“おのぶ”は、恋しい若者を訪ねてはるばる野の隅の里に向かいました。今と違って女の足で、それは辛い旅だったでしょう。訪ね訪ねて都多の里に入り、そして険しい河原山の山道を登りました。それはそれは恐ろしい事だったでしょう。“おのぶ”はようやく若者の家の前まで来ました。それは既に日も大分傾きかかっていた時刻だったのです。
そして“おのぶ”は若者の家に入り案内を乞いました。ところが不幸にも若者は留守でした。もし若者がいたならば、“おのぶ”の運命も変わっていたでしょう。が、家には母親が一人で留守番をしていました。
“おのぶ”は母親に若者との約束を話しました。聞いた母親はビックリしました。そのはずです。母親は何も聞いてはいなかったのですから。そして大変困りました。当時遊女あがりの女を家の嫁にするなんて、考えられないことだったのです。苦し紛れに母親は辛い嘘を言いました。「“おのぶ”さんとやら、貴女が訪ねてきてくれた息子は可愛そうに死にました」
びっくりした”おのぶ“を連れて母親は、新しい一つの墓に案内しました。・・・それは最近亡くなった近所の人の墓でした。しかし字の読めない”おのぶ“には、それが嘘とは分かるはずがありません。ただ泣いて身の不幸を嘆くのみ。そして泣き泣き母親に別れを告げて山を下りました。すでに日の暮れに近い頃だったようです。白い足に赤い鼻緒の草履が一際哀れであったそうです。それが生きた”おのぶ“の最後の姿であったとか・・・。
あくる日、村人は下流の滝壺の中に、若い女の死体が浮かんでいるのを見つけました。それは哀しいほど美しい“おのぶ”の変わり果てた姿でした。そして滝より少し上流の、深い淵の傍らの木の枝に、赤い鼻緒の草履が片足、引っ掛かっているのが見つかりました。誤ってその淵に落ち込んだのか、または世をはかなんだ“おのぶ”が自ら身を投げたのか。それは“おのぶ”自身以外には知る由も有りません。
それから何時とは無しに、“おのぶ”の浮かんでいた淵を「お延の滝」といい、後には『延ヶ滝』と言われるようになったそうです。そしてまた“おのぶ”が落ちたと思われる淵を『女郎淵』といわれたのです(遊女のことを女郎という)。女郎淵は今でも青々とした水を湛えています。“延ヶ滝”は今尚昔ながらの飛沫を散らしています。
一度、河原山を溯り青葉紅葉を探りながら、哀れな女“おのぶ”の面影など偲ばれるのも、夢の少ない今日この頃、よきロマンではないでしょうか。
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