寒蘭の魅力---民衆の見出した和風の美---
山内 敦人
敷島のやまと心を人問わば
朝日ににほふ山桜花
昭和一桁より上の世代にとっては懐かしい、本居宣長の名歌です。花といえば桜。桜の季節になると、しづ心なく浮かれ立つのが日本人です。やまと心を桜で表象し始めたのは平安時代に入ってからで、それ以前の記紀・万葉の世紀では、それほど深い関心を持っていなかった様で、ある人の研究によると、万葉集に登場する花は梅が97萩が94・桜はその半分にも足らぬ36となっています。当時、梅は中国から伝来した植物として珍重されたので、新しい珍奇なものに眼のない日本人らしい結果です。記紀・万葉の世紀は天皇を始め貴族たちは馬を駆って山野を駆け巡った時代です。平安期に入ると屋内に篭り、外出する時も牛車や輿に乗って出かけた時代ですから、貴族達の美的感性・美意識に変化が起こっても不思議ではありません。
貴族達の感性・美意識が、繊細・優美・優雅になった時、桜の美しさが認識されたように思われます。
他方民衆にとって桜はどんな存在だったかと言うと、美的な存在と言うよりも、稲作の準備を始めよと言う、生活と密着した存在だったようです。「さくら」という名称の由来は諸説あるようですが、最も有力な説として「さ」は接頭語、「くら」はの憑り代―神霊が仮に宿る場所―で山奥に住まう「田の神」が、山里に降りて稲作の準備を…と告げる合図に桜の花を咲かせたといわれています。民衆にとって桜は宗教性を帯た、生活に密着したもののようで、貴族のそれとは大きな隔たりがあります。現在でも民衆の花見の多くは花を愛でるよりも花を肴に飲めや歌えのドンチャン騒ぎ演ずるのは「根っこ」が美的感性・美意識に基づくものではなく生活感覚から発したものだからかも知れません。
万葉中抜群の関心を持たれた萩と桜とを比べてみると、萩の方が桜よりも野性的な美を持っているように思います。ひるがえって寒蘭の美を想うと、私の独断ですが桜のそれではなく、その根底に萩に通ずる野性味を持っているように思えます。本居宣長は中国文化の影響を受けず、まだ和風文化の確立していない上古の時代について「なお直くあき明らけく、清らけく。」といった美意識の時代だといっています。この美を具現したのが埴輪の優品だと想われます。
素朴で飾気なく、ほのぼのとした明るさを持ち、さっぱりと清清しい美といったらいいでしょうか…。私は寒蘭の美は本質において埴輪の優品のように飾らず、ほのぼのとした明るさを持ち、気取らない清清しい美しさを持っているように思えます。そして「直く・明らけく・清らけき美」は民衆の馴染める美のように思えます。桜の美が貴族によって見出された美であるのに対し、寒蘭の美は民衆によって見出された美だと思います。山里の民衆が日常の生活の中で花に関心を抱く人々が、そこはかとなく漂う香りに、葉姿を含めた風姿に魅せられて、自生する蘭の傍らで憩いの一刻を過ごしたり、あるいは身近に持ち帰って楽しんだものでしょう。
寒蘭の花は細長い薄手の花弁を持っています。細長い薄手の花弁は長からず短からず程よいバランスを保ち、弁元から弁先にかけて流れています。この寒蘭の花の特色が、寒蘭の花の美―端正・優美・清楚さ―をかもし出す極め手になっていると思えます。
ただ、花の美の一つ・端正さを熟視吟味すれば「襟を正す」といった完璧さはなさそうです。寒蘭の花の端正さは薄手の花弁故に微妙な・ゆ・れがあり、ピシリと決まっておりません。「襟を正す」といった厳しさよりも、洗練された和やかな親しみやすさを持っていると思われます。優美さを具現している桃花でも、桜の花のような優美さではなく、桃に紅と紫をかけた色合いで萩の花のような野性味を含んでいるように思えます。清楚な素心・青花にしても青の中に白黄を含み色の純粋さを欠いており、「目に立ててみる塵もなし」といった完璧さはありません。
花弁は長からず短からず程よいバランスを保ち、弁元から弁先にかけて流れていると書きましたが程よくであって熟視・吟味すれば、弁元に癖があるものがほとんどで、花弁も中太りし、完璧なバランスを以って流れておりません。茶人の言葉に「唐物荘厳」といいながら「冷えかえる美がある」といって違和感を表明しています。「唐物荘厳」の「荘厳」は「襟を正す」美です。日本人は程のよさ和やかさを愛し「襟を正す」といった厳粛さよりも優しく情緒的なものを好むようです。日本の工芸品を中国のそれと比較すると、完璧さの追及と言った点では全く異質のようです。東アジアのモンスーン地域で海に囲まれた湿潤な気候・風土という自然環境と島国で長い年月同一の種族が共生し、稲作を中心にした集約農業を営んで来た社会環境によって熟成された感性・美意識によるものかも知れません。
蘭の花は主副三弁が萼に当り、捧心と舌が花に当たります。蘭の花は通常の花とは異なる異形性を持っています。蘭の花の中には異形性を「売り」にしているものが多々あります。洋蘭のシップあたりはこの最たるものでしょう。東洋蘭でも春蘭は見方によってはグロテスクでセクシュアルな捉え方がされ通常の花と異なった異形さを感じさせます。春蘭と比べて寒蘭は細い弁と花弁の薄さによって異形さを感じさせません。元来日本人は個性の際立ったものを忌み、つつましやかなものを好みます。寒蘭は異形さという強烈な個性を巧みに隠しつつましやかな風姿にかえております。
個性の際立つものを忌むだけでなく、大型のものより小型のものを好み、色彩的にいっても濃厚・華麗なものより淡白で中間色的なものを好みます。寒蘭は「型」と「色彩」からいっても日本人の好みに適合する花です。
寒蘭の花は多花性の花です。多花性の花は個々の花が相互に影響しあってバランスをとり、ハーモニーをかもし出すことを美の要点とします。花間が注目されるのは当然のことで、花間の整っている花が名花とされています。相互に影響しあうという他者との関係性で言えば、花と花だけではなく複雑・微妙な相互関係性を持っているようです。主副三弁の型、捧心の型、舌の型、舌の色、舌点の打ち方、舌点の色子房の色、子房の長さ、子房の花軸に対する角度、花軸の色、花軸の太さ、これらのものが微妙なバランスをとり、全体としてハーモニーを創出することが美の要点となっています。日本人は個別の存在よりも多様な存在が相互関連性・取り合わせによって全体の美的雰囲気を高めているものを好むようです。本居宣長の歌を見ると「朝日に匂ふ山桜花」とあり「匂ふ」というのは現在では嗅覚にだけ使われますが、古くは相互に影響しあって美的価値を高めることに使われています。「朝日に匂ふ山桜花」は山桜に朝日が映じて一層山桜の美を高めているといっているのです。
寒蘭の花の美は相互関連性・取り合わせによって匂いあっている美しさだと思われます。寒蘭の花は桜の花よりも萩の花に通ずる野性味を持っているのではと書きました。原種・自然種故に完璧さを具現せず、そこはかとない野性味をただよわしています。日本人は野性味―野趣―素朴な味わい大使、愛着を持ち続けているように思えます。
陶芸の世界で焼き締め物という釉薬を使わず火と炎によって焼き上げた焼き物の中に美を見出しています。茶道具の多くに焼き締め物が使われています。これは日本人独特の美意識で、焼き締め物は中国朝鮮をはじめ諸外国では原始的な焼き物として雑器としてしか扱っていません。
寒蘭は本来原種・自然種だと述べたついでに、本題から外れますが原種・自然種の意味について述べたいと思います。原種・自然種ということは交配によって改良された存在と決定的に異なります東洋蘭の洋蘭に対する存在価値は原種・自然種ということにつ盡きるのです。
日本人は認識において物事の本質的な意味を問うことを等閑視する傾向性が強いように思います。古典園芸といいながら、交配を重ねた存在を見栄えがすればそれで良しとして、受け入れ原種・自然種と交配種との本質的な違いを問おうとはしません。「オモト」の世界がその典型です。寒蘭の世界でも交配種の良花が次々と出現しています。交配種は原種・自然種の未完の部分を修正しようとするものですから、完璧とまでいわなくても、それに近い存在です。見栄えの良さは原種・自然種を凌ぐものがあります。
日本人は一つの有力な流れが出現すると一気にその方向に流される傾向を持っています。東アジアの門巣本地帯で、同一の種族が長期間、営々として集約的な稲作農業に従事してきた社会環境によって、集団に対する帰属性が強く、集団が支持する風潮に同調し、これに異を唱える存在に対し、客観的・論理的な正当性など考慮せず異端として排除してしまいます。原種・自然種の本質的な意味をしっかりと問い直し完璧なものに違和感を寒鶴日本人本来の美意識を省みる必要が有ります。
一つの風潮が支配的な位置を占める例が花の咲かせ方にも見られます。現在一般的に行われている花軸を直立させ、花を四方に振り分ける咲かせ方です。この咲かせ方がその花の持ち味から言って最も美的なものはそれでいいのですが、原種・自然種故に花の持ち味は結構多様性を持っています。ですからこの咲かせ方が絶対だということはない筈です。絶対的でないものを絶対視するような風潮に疑念を抱こうとしないから、マンネリ化が生まれるのでしょう。
それはさておき、話を本題に戻します。日本人の美意識の中に脈々と流れ続けているものに二つの流れがあるように思えます。一つが平安時代に貴族によって確立された桜に表象される優美・優雅な美―王朝の雅―と、もう一つは上古の時代の美―直く・明らけく・清らけき美―埴輪に表象され民衆によって見出された、寒蘭に表象される美です。桜とともに寒蘭もまた、大和心を表象する花でしょう。
日本人の生活様式は急速に変りつつあります。和風の存在が消えつつあります。しかし、永年の間に培われた、感性・美意識は日本人の体内に流れ続けていると思われます。和風の花・寒蘭は日本人の体内を流れる感性・美意識を呼び覚ます縁になるのではないでしょうか…。
敷島のやまと心を人問わば
山の辺に咲く寒蘭の花
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