関西寒蘭会第30回本花展優勝花(2000年度)
  • 総合優勝 明鳳 森江 潤二
  • 白花優勝 白妙 岡崎 春海
  • 紅花優勝 大泉 渋谷  博
  • 桃花優勝 桃里 又川 金仁
  • 黄花優勝 金閣 鎌田徳三郎
  • 更紗優勝 翠晃 平崎 清志
  • 青花優勝 無銘 宮崎  満
  • 競技花優勝 無銘 渋谷 明義

第三十回本花会審査報告
審査部 森江 潤二

平成十二年度本花展の審査報告を申し上げます。

本年度の出品数は百四十五鉢 出品者三六名と三十回記念大会にふさわしい盛会となりました。

審査は例年の如く部門別五~六点選出し審査員の多数決で優勝、金、銀、銅賞、補欠を予め決め、各部門優勝花より総合優勝を決定。競技花、特別賞は無銘の中より特に優れた物を選出しました。又 新人の方の出品もままあり新人賞を新たに設けました。

本年度総合優勝は更紗花の明鳳と決まりました。これは筆者の作品ですが大変驚きでした。この作品が解る人がいるという驚きと、困ったという思いが交錯し複雑な思いがしたものです。

この件については「優勝の喜び」のところで私の寒蘭に対する持論について紙面を借りて述べることにします。ご一読下さい。

優勝花については夫々しっかりした株立に直立の一本の花軸を上げ数輪から十輪余りまで葉上に上げ見応えのあるものでした。更紗の翠晃は薩摩産の目新しい更紗らしい花でした。

金・銀・銅賞花では青花の甘露、呑竜、緑翠等が特徴を出した印象に残る花でした。

競技花で優勝した紅無銘(土佐黒尊産)も濃紅に色だしされた一品でしたし、特別賞の更紗無銘は今風のチャボ咲き大舌で目をひきました。

その他入賞は出来ませんでしたが高井氏の紀州産紅花は花色も冴え将来が楽しみな花でした。又、岩本氏の紀州産更紗 翠月、平崎氏の紀州産準素心 月抄 等が印象に残りました。

本会で三十回と会を重ね、展示される花も土佐を初め薩摩、日向、阿波、紀州と全ての産地の花が見られるようになってきました。蘭が安価になったこともあるでしょうが各会員の方の各産地との交流も深まってきている所以だと思われます。歓迎すべきことではないでしょうか。

惜しむらくは現在の展示されている花が、一本仕立て四方咲きを最良とした人間の理想主義的花(仕立て)になっていることではないでしょうか。表現主義的花(仕立て)がもっと増えても良いと思うのですが如何でしょうか。そうすれば展示する花の巾が出ますし、見る側にも感動を与えうることができるのではないでしょうか。

一考を投じ皆様のご高察を賜わりより本会の発展を念じつつ審査報告と致します。

Back to top

関西寒蘭会発足の頃
編集部 国政 政修

―井澤宏常任顧問に訊く―

―― 井澤さんは、関西寒蘭会発会時のメンバーであり、第一回から総務局長をされておられましたので、当時のことをいろいろとお訊きしたいと思っています。
 先ず〝活動記録〟を読んでみますと、次のように書かれています。
「昭和四十六年十一月十四日(日)薄雲、温度適温、風無し
午前十時より二時まで井上氏宅にて寒蘭鑑賞開催」
とあり、二十二点の寒蘭が出品されております。
そして、このような記述があります。
「午後一時より入会した者で発会式を行なふ。
入会者一同の推薦により井上氏会長に就任。
尚引き続き副会長・理事を次の通り決定」
とあり

 会長  井上 隆四郎氏
 副会長 岡本 幸夫氏
  〃   和田 実氏
 理事  阪上 弘行氏
  〃  三木 俊一郎氏
  〃  井澤 宏氏
  〃  田中 満雄氏
  〃  原戸 近治氏
  〃  庄野 昌男氏
  〃  庄野 慎介氏
  〃  北添 隆三氏
 顧問  道浦 慧彰氏

という記述になっています。
 このようなメンバーがどのようにして集まったのか、そのへんの事情をお聞かせ下さい。

井澤― 当時、三中同窓であった福留氏が神戸蘭友会の会長代行をしていて、誘われて、岡本氏、三木氏と共に入会し、私は裏方の仕事を手伝わされていました。
(神戸蘭友会は、福留氏の子供の頃からの友達で、企業公論社々長高井章吉氏が実権をにぎっていたと思う)。
花会も終わり、やれやれと思っていた或日、福留氏から、ほんとに蘭の好きな者が集まって、楽しい会を作りたいと、強く言われます。(恐らく、神戸蘭友会に色々不満があったのでしょう。)
私は手っ取り早い、三中同期の岡本氏、三木氏に協力してもらって新しい会をつくる準備をすすめました。
会の中心、会長を誰方になって頂くか、福留氏自身が当然、引受けなければならないのですが、神戸蘭友会とのいきさつ上、表立って会長という訳に行かず、蘭会で古くから高名な井上隆四郎氏に心中で決めていたようです。
井上さんは昭和十四年一月に幽香会を創立し、主宰し、その後、他にももろもろの役をつとめてこられ、昭和四十六年近畿愛蘭会の会長を辞任された頃でありました。
それで私と福留氏と一緒に井上氏宅を訪ね、新しい会の主旨を説明し、会長を引受けて頂く内諾を得ました。
それで、昭和四十六年十一月十四日(日)第一回花会ということになりますが、集まって来た方は、もともと井上隆四郎会長の古くからの蘭友の方々が多かったと思います。

―― ありがとうございました。
その後、あくる年の一月二十三日に会合をもたれて総会の日時を決めておられますね。
非常に興味深い記述がありますのでここに写しておきます。
「後、懇談に移り談論風発し、殊に林氏より、吾々は蘭の観賞、培養するのみならず、日本古来の日本のみに生み出された寒蘭を将来如何に保存していくか、守っていくかが吾々の課題であるとの発言あり、出席者一同大いに共鳴しました。考えますに、自然保護にもつながり、大いに社会的使命を痛感しました」
とあります。昭和四十七年にこのような意識をもっておられたことに驚きました。
時代を先取りした考えだと思います。
当時からこのようなことを論じておられたわけですね。

井澤― 寒蘭が非常に少なかった。
そしてお金を出しても、入手が非常にむづかしかったので、そういう気持ちになるのが極く当り前で言った感じです。
なお、棚を見学させてもらって、手で葉をさわる様な人は、二度と見せてもらえなかったでしょう。

―― 以降 「活動記録」は五十一年まで続いておりますが、話題を創刊号に移したいと思います。
 創刊号を見てみますと、井上会長は勿論のこと西内秀太郎氏、小原秀次郎氏などの大先達が執筆なさっておられますが、このような人達と関西寒蘭会の関係はどうなっていたのですか。

井澤― 井上会長の高名さと、福留氏が意外と筆まめで、あちらこちらに古くからよく文通してましたし、裕福でもあったので、小原氏、西内氏、竹村氏の方々、多数の方の来訪があり、私も事情の許せる時は同席させてもらったことが多々あります。

―― また、創刊号から九号まで巻頭を飾る寒蘭のカラーページは全て写真屋でプリントした写真を貼りつけてありますね。これは印刷しなかった理由があるのですか。

井澤― カラー印刷のみならず、活字をひろっていくので、印刷代が非常に高額だった。
カラー印刷を除くだけでかなりのダウンとなりました。

―― 創刊号から二十九号まで表紙のデザインは全く変わっていません。
無文老師の「素心」の題字と糸平画伯の蘭の絵は格調高いものですが、どのようにしてお二人にお願いされたのですか。

井澤― 岡本さんは、恐らく親の代からと思うが糸平さんと親しく、糸平さんは、ひんぱんに岡本邸へテニスをしに来ていましたし、糸平さんの作品の多くを岡本さんは持っています。
かげのスポンサーだったのではないかと思う、それで自然に山田無門とも親しくなったのだと思います。
因みに糸平さんの作品には殆ど、山田無門さんの讃があります。

―― 井澤さんの貴重な資料をお借りして、面白い記述がありましたので、是非お訊きしたいのですが……。
四十八年の十一月四日の第三回寒蘭会展の計画書を見ますと、監視係というのがあります。
役割も書いてありまして、「車の到着を待ち、降ろされた品を、搬入の仕事を絶対に手伝わず監視専一とする」とあります。
これはなぜですか。

井澤― 他会でのトラブル等を耳にし、事故のないよう、万全を期しただけです。
一度、事故が起きたら、その時分は蘭を買うことが出来ず、蘭会の消滅につながることになります。
その頃は審査で商人の利益に影響を与えるため、うるさい事ができ、当会でもそれをおさめるのに苦労したことがありました。

―― またこの時の審査は無論審査係はいますが、優勝者は「各賞の中から出席者全員の投票により優勝品を決定」とあります。
今と違いますが……。

井澤― その時、会を楽しくするためにしたと思います。会則できめたわけではありません。

―― 資料の中には寒蘭の価格も書かれています。
四十九年で日光八十万、
糸屋姫百万……
豊雪にいたっては六百万とあります。
高価な蘭を手を入れるのは大変だったでしょう。
井澤― 私の経験で言えば、昭和五十年頃だと思います。
坂本さんに頼んで、高知の西方面宿毛など、二百万持って買いに行きましたが、皆売るとは言わず、これならば売る、と言うのは、皆、小苗の今なら皆枯らしてしまうようなものばかりでした。
無駄使いせずにすみましたけど。

―― ありがとうございました。まだまだお訊きしたいことはありますが、紙数の関係でこの辺にしておきます。
 最後に三十年間関西寒蘭会を見守って来られて、今の関西寒蘭会に何かアドバイスなり助言なりをいただきたいのですが……。

井澤― 蘭の価格が下がり、何となく活気がないように思いますが、出品される蘭は作りも良く、立派な花ばかりで、昔なら皆優勝品で、努力して栽培されていると思います。
外見にとらわれず、いつまでも続けていって欲しいと思います。

―― それでは最後に資料として井澤さんが大事に持っておられた関西寒蘭会の設立「趣意書」がありますので再掲します。
 関西寒蘭会の原点です。
会員諸氏が発足当時に思いを馳せていただいたら幸甚です。
       
(国政)

Back to top

会誌「素心」の歩み

21号 優勝のよろこび
    審査経過報告 森江 潤二
    続投の弁 山内 敦人
    マンガ 一瀬 昇
    一寸不思議なこと 無塵庵 木偶之坊
    我が人生と蘭 宮崎 守雄
    キツネ(Ⅳ) 坂根 亮
    人生と植物 竹内 又三
    思いうかぶままに 寒蘭のよさ 青花のことなど 岩本 孝之
    話題を追って「神々しい豊雪」と「チンチクリンの白妙」と山内 敦人
    関西寒蘭会その後の歩み
    あとがき・事務局より
    役員名簿
    関西寒蘭会会則
    会員名簿
    (関西寒蘭会その後の歩み以下は、各号同じなので省略)

22号 「白妙」優勝の栄に浴して 福留 金一郎
    本花会審査報告 渋谷 博
    旧名花を大切に山内 敦人
    マンガ 一瀬  昇
    蘭作りの基本 木村 邦夫
    ベランダの寒蘭作り 渋谷 博
    新入会員紹介
    一寸困ったこと(迷っていること) 木偶之坊
    春蘭山採り行と健康 坂根 亮
    斉藤幽香先生のこと 山内 敦人
    銘品解説「紅蛾」 山内 敦人

23号 井上隆四郎元会長追悼号
    会長就任のご挨拶 福留金一郎
    退任のご挨拶 山内 敦人
    井上隆四郎名誉会長を偲んで 朝倉 義雄
    井上先生を偲びつつ 木村 邦夫
    井上隆四郎名誉会長を悼む 福留 金一郎
    井上名誉会長を偲びて山本 希幸
    井上隆四郎名誉会長を偲ん で山内 敦人
    「豊雪」優勝のよろこび 岡崎 春海
    本花会審査報告 渋谷 博
    お棚訪問
     「和歌山ガーデンの巻」 岩本 孝之
    マンガ 一瀬  昇
    「素心・自然・考」 山本 希幸
    春蘭の山採りと栽培について 坂根 亮
    入会に際して 山口 明治

24号 はじめに ―お礼の言葉― 福留 金一郎
    総合優勝を受賞して 日向の名花「静素 」 渋谷 博
    本花会審査報告 渋谷 博
    紀州の名花 小杉 裕通
    紀州愛蘭家のお棚訪問 その1 岩本 孝之
               その2
    蘭展ハシゴ 山内 敦人
    水の物理性 横田 志朗
    開花に至るまでに気づいた二、三の事項と人口光線による発色法 福留 金一郎
    蘭・燗・乱 一瀬 昇
    栗山と春ラン 石川 政一
    春ランの作出について 坂根 亮

25号 花会回顧 ―審査評にかえて― 山内 敦人
    優勝の喜び  岡崎 春海
    今後の寒蘭会を考える 平見 和士
    土佐寒蘭見学記 野口 眞人
    野性について 坂根 亮
    春蘭見聞録 小森 光彦
    寒蘭とともに 一瀬 青関
    銘品解説瑞鳳 山内 敦人
    アンケート

26号 花会回顧 山内 敦人
    優勝の喜び 岡崎 春海
    寒蘭栽培の一考察 河原 次郎
    寒蘭の花色についての考察 野口 眞人
    花色の発色のさせ方 藤崎 景士
    漫画 一瀬 昇
    花のさかせ方について 山内 敦人
    雑感 坂根 亮
    土佐愛蘭会東部遅花会 平崎 清志
    吉田義三さんを悼む 山内 敦人

27号 会長就任のご挨拶 山内 敦人
    花会回顧 山内 敦人
    独り言 山本 幸蘭
    思い出 国政 政修
    愛しきかな蘭 一瀬 昇
    蘭と人とのめぐり合い 佐山 和之
    蘭と人生 藤原 景士
    私と蘭 山内 敦人
    私の青花コレクション 岩本 孝之
    大阪国際らん展 野口 眞人
    偶感 山内 敦人
    追悼元常任顧問道浦慧彰氏 山内 敦人

28号 平成十年度寒蘭展報告第二十八回本花会
    第二十八回本花会審査報告審査部 森江 潤二
    「日光」優勝のよろこび 河原 次郎
    福留金一郎前会長追悼特集
    福留金一郎兄を悼む 井澤 宏
    福留前会長を偲んで 本庄 正義
    追悼 福留前会長と花 ―花を知る人の咲かせた花― 山内 敦人
    福留先生のご逝去を悼んで 渋谷 博
    私と蘭 野嶋 徳忠
    初心者のための寒蘭の花芽管理 野口 眞人
    高野山で春ラン採り 石川 政一
    幻の名花と東源 後藤 三男
    出逢いめぐり会い 笠松 孝司
    フルーツ・フラワーパークで家族とともに蘭を楽しもう 山内 敦人
    追悼 山内 敦人
     山本希幸常任顧問 北野一雄氏
     上田有典氏 三井生治郎氏 吉田瀧彦氏

29号 平成十一年度寒蘭展報告第二十九回本花会
    第二十九回本花会報告審査部 森江 潤二
    「翠石」優勝のよろこび 野島 徳忠
    座談会―栽培あれこれ―     私の蘭歴 渋谷 明義
    極楽とんぼ 笠松 孝司
    寒蘭栽培の一考察 河原 次郎
    花色の突然変化について 坂根  亮

関西寒蘭会本花会入賞花一覧(二十一回~二十九回)

第21回 出品70鉢
平成三年十一月十六・十七日
西宮市民会館
総合優勝  豊雪  渋谷 博
素心 優勝  豊雪  岡崎春海
    金  白妙  本庄正義
    銀  素豊  吉富 清
    銅  豊雪  藤原知詮
桃  優勝  日光  徳永幸広
    金  光玉殿  南 清二
    銀  桃紅  岡崎春海
    銅  日光  山本忠平
黄  優勝  合鵄  井奥勝三
    金  神曲  高野博文
    銀  玉姫  福留金一郎
    銅  楊貴妃  岩本孝之
紅  優勝  緋燕  藤原知詮
    金  里紅苑  吉見 勲
    銀  二科の華  岡崎春海
    銅  室戸錦  又川金仁
更紗 優勝  燦月  福留金一郎
    金  明鳳  岡崎春海
    銀  無銘  井奥勝三
    銅  和晃 内貴周右衛門
青  優勝  無銘  岡崎春海
    金  無銘  渋谷明義
    銀  無銘  吉田瀧彦
    銅  無銘  又川金仁
特別賞  大黒殿  出口一男

第22回出品 82鉢
平成四年十一月七・八日
西宮市民会館
総合優勝  白妙  福留金一郎
素心 優勝  貴雪  岡崎春海
    金  白鳳  宮崎守雄
    銀  螢雪  吉田義三
    銅  素豊  吉富 清
桃  優勝  北薩の晃  安田幾蔵
    金  日光  岡崎春海
    銀  なし
    銅  光玉殿  山本希幸
黄  優勝  神曲  岡崎春海
    金  なし
    銀  無銘  佐藤徹志
    銅  金鵄  宮崎守雄
紅  優勝  無銘  山本希幸
    金  緋燕  木村邦夫
    銀  西隆  岡崎春海
    銅  錦隆  福留金一郎
更紗 優勝  明鳳  岡崎春海
    金  無銘  野原藤馬
    銀  黄金月  吉田義三
    銅  無銘  舛屋広美
青  優勝  無銘  吉田義三
    金  銀鈴  岡崎春海
    銀  無銘  又川金仁
    銅  無銘  安田幾蔵
特別賞  豊雪  渋谷 博

第23回 出品111鉢
平成五年十一月二十・二十一日
西宮市民会館
総合優勝  豊雪  岡崎春海
素心 優勝  白妙  森江潤二
    金  豊雪  岡 義信
    銀  幽篁  福留金一郎
    銅  豊雪  吉見 勲
桃  優勝  日輪  木村邦夫
    金  日英  井奥勝三
    銀  北薩の誉  岡崎春海
    銅  桃紅  立岩信彦
黄  優勝  月宮殿  岡崎春海
    金  金鵄  河原次郎
    銀  楊貴妃  岡 義信
    銅  月宮殿 福留金一郎
紅  優勝  里紅苑  吉見 勲
    金  聖炎  井奥勝三
    銀  無銘  岡崎春海
    銅  紅鷲  神吉 治
更紗 優勝  無銘  森江潤二
    金  播磨の雪  木村邦夫
    銀  無銘  山本希幸
    銅  秋月  岩本孝之
青  優勝  無銘  森江潤二
    金  無銘  井奥勝三
    銀  無銘  平崎清志
    銅  翠翔  吉田義三
競技花紅  無銘  吉田瀧彦
    更紗  無銘  吉田龍彦
    青  無銘  平崎清志
    青  無銘  平崎清志

第24回 出品120鉢
平成六年十一月十一・十二日
西宮市民会館
総合優勝  静素  渋谷 博
素心 優勝  貴雪  岡崎春海
    金  豊雪  河原次郎
    銀  白妙  井奥勝三
    銅  素豊  野原藤馬
準素心の部
    優勝  断篁  渋谷 博
桃  優勝  桃里  岡崎春海
    金  北薩の誉  岡 義信
    銀  日光  国政政修
    銅  北薩の誉 福留金一郎
黄  優勝  無銘  岡崎春海
    金  姫百合 福留金一郎
    銀  神曲  近藤幸匡
    銅  かぐや姫  井奥勝三
紅  優勝  室戸錦  野口眞人
    金  光貴  岡崎春海
    銀  大泉  渋谷 博
    銅  土佐茜雲  宮崎 満
更紗 優勝  燈月  高野博文
    金  なし
    銀  明鳳  宮崎守雄
    銅  白舌冠 福留金一郎
青  優勝  銀鈴  岡崎春海
    金  南国  野原藤馬
    銀  秋水  渋谷 博
    銅  都どり  吉田義三
特別賞  無銘  宮崎 満

第25回 出品84鉢
平成七年十一月十一・十二日
神戸市立フルーツ・フラワーパーク
総合優勝  寿紅  岡崎春海
素心 優勝  豊雪  岡崎春海
    金  白妙  又川金仁
    銀  素豊  三井正治郎
    銅  素心  近藤 昭
桃  優勝  北薩の誉  渋谷 博
    金  日光  福留金一郎
    銀  日光  山口明治
    銅  無銘  吉田瀧彦
黄  優勝  神曲  岡崎春海
    金  金閣  山口明治
    銀  黄竜  圓尾 栄
    銅  神曲  三井正治郎
紅  優勝  日向の誉  渋谷 博
    金  西隆  圓尾 栄
    銀  錦隆  福留金一郎
    銅  寿紅  瀧口直彦
更紗 優勝  無銘  岡崎春海
    金  無銘  瀧口直彦
    銀  秋月  為川 隆
    銅  無銘  坂根 亮
青  優勝  秋水  渋谷 博
    金  みゆき  吉田義三
    銀  銀鈴  福留金一郎
    銅  無銘  河原次郎
特別賞
農政局長賞  青無銘  岡崎春海
井上賞  青無銘  渋谷明義
特別賞  赤無銘  井沢 宏
特別賞  チャボ更紗 三井正治郎

第26回 137鉢
平成八年十一月十六・十七日
神戸市立フルーツ・フラワーパーク
総合優勝  神曲  岡崎春海
素心 優勝  豊雪  岡崎春海
    金  豊雪  渋谷 博
    銀  豊雪  宮崎 満
    銅  幽篁  高野博文
桃  優勝  北薩の誉  渋谷 博
    金  桃映  高井栄之助
    銀  桃紅  岡崎春海
    銅  なし
黄  優勝  金鵄  福留金一郎
    金  楊貴妃  井奥勝三
    銀  正系金鵄  岡崎春海
    銅  かぐや姫  森江潤二
    銅  黄竜  徳永幸弘
紅  優勝  室戸錦  渋谷 博
    金  日向の誉  岡崎春海
    銀  一紅  高井栄之助
    銅  紅小姫  為川 隆
    銅  光泉  吉富 清
更紗 優勝  定の華 高井栄之助
    金  白舌冠  野口眞人
    銀 チャボ無銘 三井正治郎
    銅  無銘  井奥勝三
青  優勝  無銘  近藤 昭
    金  無銘  森江潤二
    銀  呑竜  渋谷 博
    銅  無銘  平崎清志
井上賞 青無銘  平崎清志
特別賞 北薩の誉 圓尾 栄
特別賞 無銘  岡崎春海
特別賞 男爵  瀧口直彦
特別賞 チャボ無銘 三井正治郎
特別賞 華神  大山郁夫

第27回 出品148鉢
平成九年十一月十五・十六日
神戸市立フルーツ・フラワーパーク
総合優勝  寿紅  岡崎春海
素心  優勝  豊雪  渋谷 博
    金  大雄  為川 隆
    銀  白妙  本庄正義
    銅  貴雪  岡崎春海
桃  優勝  北薩の誉  岡崎春海
    金  桃里  又川金仁
    銀  北薩の誉  河原次郎
    銅  桃里  吉富 清
黄  優勝  三光  河原次郎
    金  無銘  岡崎春海
    銀  楊貴妃  岡 義信
    銅  無銘  高井栄之助
紅  優勝  室戸錦  渋谷 博
    金  無銘  吉見 勲
    銀  千本  河原次郎
    銅  無銘  高井栄之助
更紗 優勝  春日  河原次郎
    金  燦月  徳永幸弘
    銀  無銘  野口眞人
    銅  天馬  為川 隆
青  優勝  神翠  野嶋徳忠
    金  無銘  森江潤二
    銀  無銘  野口眞人
    銅  釈尊  為川 隆
井上賞 無銘  国政政修
特別賞 無銘  河合 大
特別賞 無銘  平崎清志
特別賞 黄流  井沢 宏

第28回 出品148鉢
平成十年十一月十四~十五日
神戸市立フルーツ・フラワーパーク
総合優勝  日光  河原次郎
素心  優勝  水月  野口眞人
    金  白竜  森江潤二
    銀  無銘  圓尾 栄
    銅  白妙  岡 義信
桃  優勝  桃里  吉冨 清
    金  桃里  又川金仁
    銀  不明  圓尾 栄
    銅  日光  山内敦人
黄  優勝  神曲  野口眞人
    金  白鳥  徳永幸弘
    銀  神曲  岡 義信
    銅  黄竜  圓尾 栄
紅  優勝  室戸錦  渋谷 博
    金  田舎娘  為川 隆
    銀  土佐茜雲  又川幹子
    銅  安芸錦  野口眞人
更紗 優勝  明鳳  又川金仁
    金  無銘  森江潤二
    銀  無銘  宮崎 満
    銅  燦月  渋谷 博
青  優勝  無銘  渋谷明義
    金  千代娘  野嶋徳忠
    銀  無銘  宮崎 満
    銅  秋水  近藤 昭
井上賞 無銘  岡 義信
特別賞 無銘  渋谷明義

第29回 出品127鉢
平成十一年十一月十三・十四日
神戸市立フルーツ・フラワーパーク
総合優勝  翠石  野嶋徳忠
素心 優勝  豊雪  岡崎春海
    金  竜雪  吉見 勲
    銀  素豊  井沢 宏
    銅  素豊  吉富 清
桃  優勝  日光  河原次郎
    金  北薩の誉 渋谷 博
    銀  北薩の誉 野口眞人
    銅  北薩の晃 平崎清志
黄  優勝  神曲   近藤幸匡
    金  無銘   坂根 亮
    銀  楊貴妃  山内敦人
    銅  楊貴妃  圓尾 栄
紅  優勝  雨情   渋谷 博
    金  赤富士  前林利和
    銀  御神錦  岡崎春海
    銅  雨情  吉富 清
更紗 優勝  更科  岡崎春海
    金  明鳳  又川金仁
    銀  翠月  岩本孝之
    銅  山彦  前林利和
青  優勝  大竜  渋谷明義
    金  無銘  近藤 昭
    銀  銀鈴  森江潤二
    銅  銀鈴  松下茂治
柄物・チャボ系
   優勝  無銘  野嶋徳忠
    金  文鳥  吉見 勲
    銀  青玉  安田幾蔵
    銅  無銘  平崎清志
井上賞 無銘  圓尾 栄
特別賞 緑  西井 緑


Back to top

四方山話 ---インターネットという妖怪をめぐって---
山内 敦人

 今年はミレニアムの年、二一世紀を迎えるに当たって、「I・T革命」という言葉が世上をにぎわせています。蘭人の間でもインターネットを駆使して、人的交流・情報の収集等が行われています。居ながらにして、瞬時にグローバルな形で映像を通じて交流が出来るインターネットの存在は二一世紀の蘭会に色濃い影を投げかけるものと思われます。従来は人的交流・情報の収集など蘭に関する事柄は蘭界を通じて行われるのが通例でありました。インターネットの存在は蘭会を超えて、個人対個人という形で行われます。従って、蘭会の存在価値に影響を与えずにおかないように思われます。この意味からいうとインターネットは妖怪的な不気味な存在として二一世紀の蘭界を脅かすかも知れません。インターネットという妖怪のほう彷こう徨を前にして、蘭会の存在意義を見詰め直すのも意義のあることかも知れません。

 「趣味」の本来の意味は、心静かに自由に心のおもむ趣くままに興味・関心を引く対象を味わい楽しむということにあります。とはいえ「趣味の会」ということになると、「趣味」とはいえ「会」という組織になりますから、人間集団としての規制力が働くのは止むを得ません。その上、趣味とした対象に魅せられれば魅せられる程、心静かになどといっていられなくなります。趣味の世界で名人・上手の多くは「狂」のつく存在です。ですから「我」の強い存在が多く、「我」と「我」が衝突してうまく調整出来ない場合、分裂が起こります。「趣味に基づく任意の友好団体」であるはずの「蘭会」が、案外離合集散が多いのはそのためかも知れません。蘭界を見渡すと「会」に所属せず、ごく親しいグループで蘭を楽しんでいる存在が意外と多いものです。これらの人々には「会」に所属して束縛されたり、対人関係などの余波を受けて心を乱されるのは迷惑。親しいグループなら、趣味本来の姿を楽しめるという事なのでしょう。

 私が入会した、ほぼ三十年前は東洋蘭の黄金時代で、東洋蘭礼賛の声が充ち溢れていました。聖草・究極の至高至純の園芸。どこまで真の意味を理解していたのか疑問に思いましたが、幽玄美・わび・さびの極致などオドロオドロしい言葉が飛び交っていました。反面蘭が高値だった事もあり、金銭に関しては極めてシビア。タテマエとホンネのかいり乖離が目立ち苦笑いを禁じ得ませんでした。

 うちの会に入会した第一印象は「老人クラブ」かと思えるような雰囲気で、厳めしい感じの蘭歴数十年の会長さん。それを取巻く長老達。恐れ多くて蘭をはじめたばかりの若僧は口も利けないような雰囲気でした。まぁ、もっともこれは受け取り方の問題で、うちの会は会長はじめ長老達は「趣味の会に徹する事」をモットーとされていたのですから。で、本人達にはそんな気はなかったのですが…。このような重々しい雰囲気にはいささか反発を感じ、物怖じしない図々しい私のことですから結構物申しておりました。東洋蘭は高尚かも知れないが、しょせん所詮元は野生の草じゃあないか、自分の惚れ込んだことを持ち上げたいのは人間共通の心理だが、東洋蘭こそうんぬん云々なんて事大主義もいい所。既存の権威主義的な価値観でなく、自分の目で、自分の感性・美意識に基づいて東洋蘭の美しさを捉えるのが本筋だと思っておりました。そしてまた、会長・役員はそれにふさわしい実績・実力を持たれた偉い人かも知れないが、「会」という組織から考えれば一つのポストにしか過ぎない。会員である限り、新入りの会員でも対等だと考えておりました。物申してみたら当初感じた雰囲気とは違い、結構話の通ずる人達だったので安心しました。「物言わば唇寒し」ということもありますが、ケースバイケースで、はっきり物申すのは意味の有る場合も有るようで…。ただ、今から想うと、元気のいいニイチャンが入ってきたと喜びながら、何と小生意気なニイチャンよと思われていたのではと微苦笑を禁じ得ません。「蘭会」が人的交流・情報の収集等の中心的存在として存在意義を誇っていた時代でも、趣味本来の姿に徹しようと「蘭会」に入らなかった人がいる理由が分るような気はしました。

 個人対個人の関係に基づくインターネットの交流は「会離れ」の傾向を助長する可能性が有ります。特にインターネットを駆使する人々は相対的に若い人が多いのです。当今の若者気質として、極めて自己中心的だといわれています。たまたま聞いた話ですが、勤め先の上司が部下の若い人に仕事が終わった後「飲みに行こう。」と誘ったら「それは義務ですか。」と反問され上司は目を白黒させたという笑い話的なエピソードが有ります。豊かさの中に育った若者達にとって、昔の様に上司のオゴリを当てにする気などなく、仕事の上での上司は認めても仕事が終われば人間として全く平等かつ対等。仕事外のおつきあいは有難迷惑。我々は自由にやらせてもらいます。その方が遥かに楽しいです。といった所でありましょう。上司の気持ちを汲み取ろうとしない点では確かに自己中心的ではありましょう。しかし、一方において合理性を持っているのも事実です。

 最近の「蘭会」を見ると、昔と違って豊かになり趣味も多様化したので「蘭会」にも多くはないが若者の姿が見られるようになりました。特に産地へ行くと山採りを中心にして若者達のグループが結構あるようですが「会」に結集することはなかなか難しいようです。インターネットの存在。当今の若者気質を考えると、若者を会に吸引すること。さらに「会」に入って来た若者達に「会」の中で生き生きと活動してもらおうと思うと、一工夫いるようです。まず何よりも「老人クラブ」的な雰囲気は論外。小学校あたりの標語みたいですが、明るく・楽しく・にぎやかで、少々のことを言っても笑って済ますような会でないと若者達はソッポを向くでしょう。長い蘭歴という唯一の経歴を看板にしてーー「亀の甲より年の功」長い蘭歴は貴重なものですが、インターネットを駆使する有能な若者の蓄積する知識・技量は、短期間で経験のみを頼りにする存在を追い抜いてしまうでしょう。ーー会長・長老として君臨する権威主義的な雰囲気なども、若者達はダサイとして拒否するでありましょう。「長幼序あり。」昔の修身・今の道徳教育の標語みたいな認識も「会」に身分秩序を持ち込むのかと疑われ、長老が若者達に「クチバシの黄色い者が何を言うか。」などと、高圧的に一喝しようものなら「イカサナイジイサンよ。」「イカサナイ会よ。」とアカンベーをして立ち去ってしまうでしょう。まぁもっとも、「長幼序あり。」はマナーとしては大いに意味のあることですが…。それともう一つ重要なことは、若い人にポストを与えて仕事をしてもらうことです。その他色々あるでしょうが一言で言ってしまえば「蘭会」は「趣味の会」の原則に立ち環って、それに徹することかも知れません。「趣味の会」だから会員は平等。会長・役員は組織上のポストで、「ご苦労様」と労をねぎらっても、雲の上のエライ人などという発想は無用でありましょう。「会長・役員は会の動向を左右する重要なポスト、慎重に選んで適任者を据えなければならない。」とよく言われます。確かに正論です。けれども現実を見ると重要なポストにはまり込む、理想的な適任者は「趣味の任意の友好団体」という比較的狭い範囲ではそうそう存在するものではありますまい。正論にこだわ拘るより、連合会など大きな会でなければよほどの人でない限り、誰でもやる気になれば会長・役員は勤まるもの。特にうちの会ならば…。会長・役員の足りない所は心ある会員達で力を合わせてサポートすればいいのです。このようにおおらかに考えた方がいいのではないでしょうか。無理やり会長・部長に選ばれた会員は事の重大さに襟を正したり、会のためとハッスルしたりせず「自分は並の人間で、どう考えたって百人に一人の人材じゃあない。」と割り切り「会員が選んだんだから、選んだ人の責任は重大。各員一層奮励努力して下さい。とゲキをとばせばいいのです。この方がおおらかなゆとりある「会」の雰囲気が生まれ、事が円滑に運ぶのではないでしょうか。リンカーンじゃあないけれど、「会員による会員のための会」。21世紀の「蘭会」の一つの指標になるかも知れません。日本は高度成長の結果豊かになり、マスメディア・交通が発達し、地域を越えた交流が活発になりました。この結果、日本社会の根強い基盤だった村落共同体的体質が変質して行き、地域差はありながら日本社会特有の従型社会・集団を個人より優先する集団主義的意識が変質しつつあるように思います。前述した上司の誘いに応じようとしなかった若者の意識は端的な一例でありましょう。

 高度成長を支えた年齢層までなら、集団への帰属意識が強いから「趣味の会」でも「会」のためにという大義名分があれば趣味の本来的なおいて、多少の自己犠牲を強いられても辛抱出来るでしょうが、当今の若者には通用しますまい。

 従型社会における上意下達。個の存在を埋没させて集団への帰属を善とする集団主義。会のためという大義名分による自己犠牲の強要。いずれも本来的には「趣味の会」になじ馴染まない意識だと思われます。最初の方に書いたように「趣味の会」とはいえ人間集団である限り秩序を必要としますから、規約等規制力は働きます。会長・役員等はポストですから、ポストには権限が付与されます。けれども、集団の規制力、ポストの権限などを無にしてしまうような雰囲気を持つ「会」こそ「趣味の会」にふさわしい会でありましょう。「会員による会員のための会」と書きましたが、会への参画の仕方は個人の自由意志によると思います。ですから会への参画の仕方に差があるのは当然のことです。一人でも多く参画してもらうことは「会」のために必要欠くべからざることです。勧誘することは大切なことですが強制は出来ません。花会の時だけに参加される会員。会誌だけの会員なども大切な会員です。趣味の原点が個人の自発的な意志・意欲に基づくように、「会」への参画の仕方も個人の自発的な意志意欲に基づくのは当然のことでありましょう。

 「趣味の会」の役員はボランティア活動だと思われます。役員になった動機は様々で、無理やり押し付けられたという場合もあるでしょう。でも集団の中で自己の存在を認知させること、あるいは認知されることは一つの生き甲斐になります。うちの会はご存知のように部長をはじめ主要なポストは若い人(「蘭会」ではという但し書きが付いても…)がほとんどで、うちの会が舞を舞えるのは若い人達の存在を抜きにしては考えられません。ここ数年来、うちの会に若い人達が何人か入会されました。待ちわびていた、いいカモが舞い込んだと喜び、勇んでしばら暫く見守り、この人ならいけるそうだと思うと、もみで揉手をしながら「実は○○部長のなり手がなくて困っています。一つ助けると思って引受けてもらえませんか。まあ、うちの会の規模からいって、そう仕事の量は大した物じゃあありません。(傍点)何よりも若い人は年寄りより行動力があり、会が活性化します。(ここまで)是非お願いします。」カモさんは一寸けげん怪訝な顔をしながらも、「私は入会して日が経っていませんが、それでもいいんですか。お困りなら、私でよかったら引受けてもいいですよ。」という有難いお言葉。「なあに会での経験年数なんて問題じゃあ有りません。役員になられる方が、仕事を通じて皆と親しくなれていいですよ。」案ずるより生むが易しで、多くの場合快く引受けてもらいました。多少ためらいを見せられる人でも、「○○さんは役員として適任だと思います。皆さん盛大な拍手で承認して下さい。」と暴力的に押し付けてしまいます。こんな場合でも決して会を辞めたりはせず、快く会員と協力して頂いております。まあ、もっとも内心「とんでもない会に入ったもんだ。運が悪かった。」と思っておられるかも知れませんが…。若い役員の活躍振りを見ても、素晴らしいカモさん達でネギまで背負って来てくれたと喜んでおります。

 かつて、日本占領時代に君臨したマッカーサーが極東軍司令官を解任された時、アメリカ議会で演説し、マッカーサーの卒業したウエストポイント(米陸軍士官学校)での愛唱歌を引用して「老兵は死なず、消え去るのみ。」と言った事がありますが、うちの会では「老兵は消え去らず、静かに見守る。」のがいいと思います。年を取ると「今の若い者は…。」と思い勝ちになりますが、考えて見れば先に消えるのは老兵の方でして…。

 若い人がミスをした時、ミスを声高に批判・非難するのは芸のないことで、さりげなくミスをカバーするのが老兵の役割だと思います。老兵は若者の持っていない人生経験を持っています。これを生かすのが老兵のチエでありましょう。この事によって若い人達は安心して積極的に活動することが出来るでしょう。老若友に共生して共存共栄する雰囲気が定着していけば、案外若い人達も会に馴染み(なじみ)やすく、会に首を突っ込んでみようという気になるかも知れません。

 うちの会は若い人達に多くの仕事をこなしてもらっています。この事に付いて一言触れておきたいのは、年令的に見て仕事の面では働き盛り、家庭的に見ても子供さんの教育問題など多忙で負担の多い時に当たります。その上トウチャンは蘭などと言う下らぬものに血道を上げており「一寸は家族の方へ顔を向けてよ」など物心両面で負担の重い時です。会員の方にはこの点十分お含み頂きたいと思います。故福留前会長は常日頃「会員にとって会員であることが苦痛になるようなことは、絶対に避けなければいけない。会員相互に出来るだけ負担を分け合うように…。」と言っておられました。「頂門の一針」でありましょう。若いというのは単に生理的な年令のみを意味しません。会員としての経験年数など問題でなく、「会」の仕事を手伝ってやろうという方は、ためらうことなくご協力方お願い致します。

 インターネットと言う妖怪の影を色濃く受けるのは都会地の「蘭会」でありましょう。「趣味の会」に徹するために会員同志の”ふれあい”は欠くことの出来ないものでしょう。グループを中心にしながら会のイベント以外の時にも会員同志の交歓が行われる「会」。交歓の頻度の高い「会」ほど充実した会でありましょう。そういえば産地を控えた規模のあまり大きくない会を見ると、地域的なまとまりがあり、どこのだれそれさんと日常生活の隅々まで知っている強さがあり、長老も若者も山採り等を通じてこまやかな交流が行われております。まさに”ふれあい”によって老若ともに共生し共存共栄の実が上がっているようです。こういう「会」には名利を離れて「蘭こそ命」という長老がおられ、会員に蘭をいつく慈しむ心を問わず語りに身を以って示しておられます。ローカルな会を訪れる楽しみは地域の花が見られることと、このような「蘭の仙人」的な長老にお目に掛かれる楽しみがあります。こういう会ではインターネットという妖怪も影が薄くなるでしょう。 インターネットという妖怪の出現によって「蘭会」の役割に、人的交流・情報収集等の面でかげりが見えるかも知れませんが、花会等のイベントのことを考えると「蘭会」を通じて行われるような公共性はありません。この点こそ不変の「蘭会」の存在意義でありましょう。

 素晴らしい花が咲いた時、多くの人々に見てもらい称賛を浴びたいと思うのは、蘭人共通の心理でしょう。「会」の提供した場、花会で多くの人に見てもらい賞賛されることは、個人の喜びが良い花を見せてもらって喜ぶ多数者の喜びに転化することになります。それだけでなく、多くの良く咲いた花の優劣を認識してもらうのも「会」という公共の場があればこそです。

 個人の世界・小クループの世界に閉じ篭る人には、雑音を絶って純粋に趣味の世界を追求でき、自己充足を得るでありましょう。けれども公共性に欠ける限り、そこにある自己充足は自己満足を出ないのではありますまいか。個人の喜びが多数者の喜びに転化すること、個が公に転ずることこそ真の意味での自己充足ではありますまいか。人間が社会的存在である限り…。

 インターネットという妖怪の出現によって「蘭会」は影響を受けずにいられないでしょう。対策を誤ると、個室を持ち個室に篭り、電子機器と遊んで育ち、自己中心的な若者の多くは対人関係の煩雑さを嫌い個人の小世界に閉じ篭って行くでしょう。「蘭会」は若者達を吸引できなければ活力を失い衰退の道を歩む他ありますまい。「趣味の会」に徹し、「蘭会」は公共の場。個人と公共との結束点だという存在意義をしっかり見据えることこそ「蘭会」の衰退を救う道ではないでしょうか。


Back to top

寒蘭の色出しについて

はじめに
 私が寒蘭を始めて知ったのは30年程前、30才ぐらいの時で、紫檀の花台に青花5~6輪(上2輪は蕾)を、玄関に飾られていたのを見たときでした。この世の花かと驚愕し、感動しました。「これだ!」ととっさに思いました。探していたのはこれだと思ったのです。これがこの世界に入ったきっかけでした。どこにそのような感動を受ける要素があったのか今もって解りません。今も探している現状です。今作場を2室もち、250鉢ほど培養していますが当地で20年になります。通算寒蘭暦30年程です。兵庫県の明石と加古川の間で海岸線より6キロメートル海抜五〇メートルほどの年間雨量も少なく溜池の多い所です。周囲は住宅街ですが500m~1kmも外に出ると田園地帯で山は遠く離れている平坦な地帯です。これまでは、仕事におわれろくに記録も取っていませんが、経験よりいろんな不具合を一つでも良くしたいと思いながら、試行錯誤の連続でした。昨年 会社を辞めてからは、まず、気温の計測から始め、これまでの不具合の是正を試み、一年近く経過し、ある程度の成果を得たので報告し参考に供したく筆をとった次第です。研究者でも文筆家でもありません。読みにくい点は御容赦願います。
 私の寒蘭に対する考え方の根幹は、当初私の寒蘭から受けた感動を一人でも多くの人に知ってもらいたい、ということでした。今は加えて寒蘭と共に生きる、そして自分を写す鏡であると考えています。

一、私のこれまで経験した現象および疑問 私のこれまで経験した現象を列挙してみます。皆様もいくつかあるかと思われます。
イ、花の咲き方が変わる。
三角から平肩に咲いていた株が抱え咲きに変わる品種があり戻らない。
ロ、開花時期が遅くなっていく。
十一月に咲いていた花が 翌年二月まで遅くなっていくものがある。
ハ、購入した赤花が更紗になる。
ニ、柄の出現が一定しない。
ホ、舌前面無点物が舌点が出て消えない。
へ、年一作が遠のいていく。
ト、暗作りしている人から分けてもらった株は花が咲きにくい。
チ、肥料を多く与えている株は復元するのに数年かかる。など等
これらの現象は品種の特性もあり、生産地との気象条件の差、あるいは自分の作場の環境・培養法など不確定要素に起因する問題と思いながらの繰り返しでした。特に温度差は昔から言われ、色花に関してはその年の気象条件に頼るしかないと期待する。そして、地球温暖化が進む中仕方なしと落胆する。

一方花の仕立て方に対する疑問
現在、展示会などで寒蘭は一本仕立てで、直立し、葉上に抜け数輪を四方咲きしているものが最良とされ、皆それぞれ工夫を凝らしている。
しかし、寒蘭を知らない人が見て 香りは別として感動するのはこの仕立て方が最良なのでしょうか 確かに見た目に綺麗です美しいです。だが感動し自分も作ってみたいと思う人が一向に増えない。いや減少傾向にあるといってよいと思う。人間の目は1/10mmが判別できるといわれ久しい。1/100mm判別ができるのではないかと思う。
 この視点は色出しより難解で大切なものかもしれないと思うのは私一人でしょうか。
 ここでは長くなり、本題から外れるのでこれまでに止めておきます。

二、今年の培養上での大発見(?)
イ、先入観
 先述のこれらの現象に対し、先ず思い当たったのが光の取り方です。植物全て光合成により養分を作り蓄えます。私の経験した現象はほとんどこの光に関係しているのではないかと感じられます。
 蘭の山採りの経験、自生地の薄暗さ(一日中の光の経過を見ていない)が入力されていたのです。
一度蘭舎を作るとこれでOKと思ってしまいますし又、本にも通年五〇%遮光のダイオネットあるいは寒冷遮を一枚張り、夏は一枚追設する、と書いた物もあります。この遮光も先入観として入力され、継続されていくのです。そしてなお、屋根材として張られた半透明のガラス繊維入りの波板は老化し光の透過率は下がるばかり、暗作りの人の蘭は咲かないといいながら自分の環境のことはおざなりとなっていたように思います。
ロ、光のとり方(年間気温記録表・蘭舎配地図参照)
サンルーム側蘭舎昨年末屋根材をポリカーボネイト(ポリカ)の半透明板に取替えました。(外蘭舎は一昨年ガラス繊維入り波板に取替え済み)一挙に明るくなり少し心配もありましたが1月にダイオネット遮光率五〇%を張り、10月まで経過を見ることとしましたが、8月上旬昨年の成葉1枚に光線が直角に当たっている部分50mmほど 真白に葉焼けを起こしました。これが光線のとり方として今の蘭に限界だったようです。葉に触ると少し熱く感じました。斜めに光が当たっている部分は熱を感じません。
そして9月花芽が伸びだし、最高気温が30℃を切り出したころ今回は9月19日に両蘭舎ともダイオネットを取り外しました。このころは太陽も傾きそれほど強い光はありません。但し、蘭舎には換気扇(20cm)2台設置しており、1台は外気を入れ、もう1台は排気用にサーモスタットで自動発停(30℃)するよう設定しています。これで問題なく何日かは換気扇が回っていました。最高気温も35℃がMAXでした。9月下旬は最高でも30℃をきるようになり10月はじめから温度差を取る為、昼は窓・入り口ドアーを締め、夜、開放に入りました。
基礎部の通気孔は開けたままです。これで天気がよければ15度前後の温度差が取れることがわかりました。私の所は隣家との関係で配置図に記載しておりますように両蘭舎とも数時間しか太陽が当たりません。(9月以降)一日中陽が当たるところは温度が上がりますので注意が必要です。これまで5~6年間朝陽が当たるサンルームで温度差を取る為開閉をしてきましたが逆だったわけです。ましてダイオネットは外していませんでした。したがって温度差も取れず色出しに失敗していました。朝日が当たるサンルームのほうが昼間温度が上がるだろうとの思い込みがありました。やはり計測し記録をつけることは大切な事です。これも発見の一つです。
年間温度記録にありますように10月は外蘭舎で10℃以上温度差が取れた日が22日、温度差平均12.3度取れたわけです。サンルーム側は温度差を十分取れませんでした。
色出し用の蘭はほとんどサンルーム側に入れていたので急遽外に移しましたが今年は遅かったようです。
ハ、私の今年の大発見
 
一、無点が帰ってきた。
舌前面無点物で点が出て消えなかった青花が無点に近く咲きました。
まだ完全ではありませんが やっと帰ってきたのです。これは驚きでした。予想していなかったことです。舌点の紅もアントシアンですが光をあてて消える。アントシアンには光が少なくても発色するものと、光を得て発色するもの等2~3種類あるようですがこの青花は光が少なくて発色するものだったのです。
 
二、桃花が桃に、紅が赤く、更紗が更紗らしく
これでやっと寒蘭誌で見るような色に近づけることが出来ました。写真は後日にしますが、蕾のときから紅、更紗、桃とはっきり区別がつきます。光をあて温度差をつけてやれば寒蘭の色出しは暖地でも出来ます。朝陽に当てたり、夜露にあてたり、鉢を動かす必要はありません。黄花はまだハッキリしませんが、遅く咲くものは黄色に出ます。早いものは緑がのって最後まで完全には消えません。黄花は今後の課題となりますが以前よりははるかに良い色になりました。花軸は色の出るもの緑軸のものがはっきりします。これまでの花が一変します。新花を見るように現に無銘更紗で初花かと思うものがありました。
 
三、その他の変化
光を多く取り入れたことにより、上からの散乱光が増え真っ直ぐに花軸が伸びる範囲が広がった気がします。ダイオネットをかけていると回りの影響を受けやすい。
蘭花では舌が巻きにくい気がします。この因果関係は解りません。
今まで巻舌だった無銘の蘭(黄花・更紗)で垂舌が出ました。新芽もなかんずく短い気がします。光線が多いと長い葉が必要ないのかもしれません。
おわりに
 
 今後の課題は検討中です。画一した寒蘭栽培ができる世になれば幸いです。 私がここに記したのは一考察に過ぎません。各地、各人それぞれ思い、環境の違いがあります。自分で納得して戴いた上でやってみる価値があるや否や御検討ください。
 色出しができると解ってしまうとこれまでの桃更紗も見る価値があり桃更紗のほうが美しいかなと思ったりもします。先人が言ったように寒蘭は色の多様性をもった宝草です。他の植物には無いとおもいます。美しく、優しい花を咲かせ人に感動を味わってもらえ得れば嬉しく思います。
 ご質問、ご指摘などありましたら下記までお願い致します。
 

Back to top

寒蘭「文人作り」の提案
平成十三年六月二四日 審査命名部  概要

現在までの花会審査では、寒蘭の評価が一面的で何か釈然としない部分がある。多くの方々が寒蘭の良さについて、「清楚、詫び寂、風情」などの言葉で言い表しているが、展示会で注目を集める花は多くの場合それらの言葉を感じさせない花である。そこで、新たに「文人作り」というカテゴリーを設け寒蘭を別の側面から評価すれば、多面的な価値評価が考えられる。

(参考一)カンランの栽培―カンランあれこれ 

鈴木 吉五郎 東洋ラン(栽培の楽しみ) 誠文堂新光社

[作ること] さて、作(さく)の中には満作(まんさく)と本作(ほんさくあるいはほんづくり)といわれるものがあり、前者は人手をかけて精いっぱいに作りあげた意味で、その種特有の持ち味は二の次と解していただきたく、後者は本来の持ち味を生かした、うまみのある作を第一義としたいと思います。以後、このことを「うまみ」と略称します。後略

(参考二)文人画興隆の起動力になった時代的気運(江戸時代中期の二つの大きな流れ)

一つは、形象に瞳を凝らし、真の姿を捉えつつ、その奥に存在する理想的な美しさを描き出そうとする。いわば形象の理想化を求めていく理想主義的写実主義の傾向…写生画がこれに近い(現在までの花会審査)

今一つは、視覚を通して、形象から感知される心の状態や、現象の深層に潜む象徴性を凝視することによって内面の世界を表現しようという、いわば表現主義的傾向‐‐‐文人画が極めて近い(文人作り)

 文人画の観賞基礎知識   佐々木 丞平/佐々木 正子   至文堂

1、「文人作り」の評価基準
1‐1 花だけの評価ではなく、葉、鉢を含む総合評価とする。
1‐2 作者の自然観や哲学が表現されていること。
1‐3 作柄の評価ではなく、風情の表現(内面の世界を表現)に主眼を置く。

2、解説
2‐1 鉢、葉を含む総合評価
 ① 映り(鉢の種類は問わないが、風情、自然観を壊さないもの)
 ② 対称の評価 
2‐2自然観、哲学の表現
 ① ゆれ、ゆがみ、穿ち、ひねなども評価対象とする。(物体や現象の源までをも解明すべきである。--哲学)
 ②「見立て」等日本的な遊び感覚も評価対象とする。
2‐3風情の表現
 ①種の持ち味の表現

3、具体策
 ア、直幹でなくても良い(ゆれ、ゆがみを評価対象にする)
 イ、双幹以上も可(大鉢作りなども評価対象にする)
 ウ、軸抜けの良さも問題外である
 エ、懸崖作りなども可
 オ、花色別の評価を行わない
 カ、チャボ、特花、奇花などを含む
 キ、出展は自己申告、審査で優勝、金、銀、銅を選出、優勝花は総合優勝の選に入れる。

《参考資料》
文人とは 文人画の観賞基礎知識

 佐々木丞平/佐々木正子  至文堂

 文人画とは、中国において発生したもので、専門の画工の描いた絵に対し、絵を描くことを職業としない立場の人の描いた絵ということができる。唐代には、官僚登用試験である科挙(かきょ)の制度の確立に伴い、科挙に合格した官僚である士大夫(したいふ)が登場するが、この士大夫を「文人」とも呼んでいたのである。文人というのは文学者、文筆家というイメージよりは政治的立場における高位高官である場合が多く、少なくとも儒教的学問教養に裏打ちされた、知識人、教養人であったといえる。

文人画の精神的背景としての儒教思想

儒教では、多くの障害や混沌とした状況に取り囲まれた人間社会が、聖人によって相生き相養うために、衣服の制、食事の制、住居の制をはじめとし、さまざまな礼楽、制度が定められると説く。この制度の製作者としての聖人、即ち「君」が政令を出し「臣」が「君」の政令を「民」に対して執行する。人間の世界というものが、この「君」「臣」「民」の三者によって構成される政治的世界として理解されるところに極めて特徴的な儒教的社会観がある。そして更に重要なのは儒教の根本精神で、正心・誠意・終身・斉家・治国・平天下という言葉が示すように、最も個人的な心の問題が、家庭の問題、国家の問題、世界の問題へと直結しているところに大きな特色がある。

知的修練の場としての絵画制作

唐時代の後半の文人張彦遠(ちょうげんえん)が「歴代名画記」という書物を著したがその中の「画の源流を叙す」の章に 絵画とは歴史的な事実や古い良い教えなどを、具体的な「形」として理解しやすくの地の人々に伝えることができるものだ、としている。自然界のさまざまな物を描こうとすることにより、深く外界を観察し、大自然の構造や微妙な変化に精通する事が出きる。絵画を見ることは書物を読むのと同じように見聞を広め知識を豊にしてくれる。

意味の伝えようがないので書(文字・言語)が生れ、形の示しようがないので画が生れたと張彦遠が言っているように、絵画は単に芸術としてだけではなく、むしろ学問の一つの分野として考えられていたのである。

文人の理想は自らも聖人となることであったが、政治のために哲学することも、歴史を学びその伝統を保持することも、詩を作り、絵を描くという芸術行為そのものも人格形成の手段であったのである。その意味では絵画は自らの思弁的探求の一つの重要な手段として存在していたのである。

「筆法記」の思想

唐末五代の画家荊浩(けいこう)が述べたものをまとめた「筆法記」というものがある。荊浩は学問もあり文章にも優れた、経史にも詳しい、いわば政治学者であったが、乱世を避けて官途につかず、太行山の洪谷に隠棲した。その間に絵画の何たるかを考え、自らの絵画観を示したのがこの筆法記であった。

物体や現象の源までをも解明して写すべきである(絵とは哲学なのだ、という意味)木が生きているように描くにはその性を把握して描くのが大切である。曲がっているけれども、単にくねくね曲がっているわけではなく骨を持っている。

密なようでもあり粗いようでもあり、青い色をしているようであり緑色をしているようでもあり、若木のときから自然と真っ直ぐで、その生命の意志は始めから伏することなく、勢いは既に孤高を保っている。枝がまた垂れて伏し大きく傾いてはいるが地面に墜ちず、林間に層を成して重なっているその姿はまるで君子の徳風を見る思いがする。まるで龍が飛んだり伏したりするように、枝葉を狂った態に描いてもそれは松の気韻を描いたことにはならない。(略)

なすべきこととしては、細かい枝葉を捨てて、根本の大本を取りなさい、理論をまずよく理解して、その後に筆法を身につけなさい。

日本文人画興隆の時代背景

既に述べたように文人画の発生は中国にあった訳であるが、やがてその波は日本にも届く。初めの兆候が現れるのは室町時代の水墨画においてであった。しかしそれは五山文学を背景とした禅宗世界という極めて限られた世界においてであった。日本において、初めて文人に類する立場から絵を描き、また、表現の様式から見ても文人画的雰囲気をもっていたのは桃山末から江戸初期にかけてである。

文人画の第二波が本格的に中国から届くのはその後の江戸時代であるが、この時に初めて文人画が日本にも根好き、日本文人画が本格的に成立するのであるが、中国文人の生き方やその美意識への憧れとしての文人スタイルや文人画スタイルから出発したのである。

江戸時代は啓蒙の時代であり、知識高揚の時代であった、真の姿を知りたいという思潮はやがて真写の時代へとつながって写生派を生むことになり、一方中国の思想や文化芸術に対する厚い思いは文人画派を生むことになる。

文人画の基礎概念

画の六法

 画の六法は絵を描く際の基本をまとめたもので、中国南斉時代の謝赫(しゃかく)が、「古画品録」の中で初めて述べたものである。謝赫が六世紀に「画の六法」をまとめてから、中国に於いても日本に於いても絵画論といえば、まずこの「画の六法」について触れ、それをどう解釈するかが大いに問題となってきたのである。

 「画の六法」
 一、気韻生動(これについては後述)
 ニ、骨法用筆―(描法、運筆)
 三、応物象形―(写形、形成)
 四、隋類賦彩―(色彩への配慮)
 五、経営位置―(構想、構図、構成)
 六、伝移模写―(伝統より学ぶ)
 「画の六法」をどのように解釈するかはそれぞれ画家個人によって微妙に異なっているし、特に日本においては、狩野派、土佐派、円山派、文人画派等、各流派によって大きく異なっていた。しかしいずれの派においても共通している点は、「気韻生動」を最も重視するということであった。

気韻生動

 第一番目に揚げられている「気韻生動」が具体的に何を指しているかはなかなか限定しにくいが、それぞれの文字の意味としては「気」は万物生成の根元力。身体の根元となる活動力または運気、大気、呼吸。

 「韻」はひびき、おもむき。「生動」は、生き動く、生き生きとして真に迫ること、である。文字上の意味としては「万物生成の根元力のひびきが生き生きとして真に迫ること」となる。

 解釈の仕方によっては「対象物の生命力、呼吸をつかんで、それを描け」ともとれるし、また、「描かれた絵に一個の生命体のような生き生きとした輝きが必要である」ともとれる。日本ではどうであったか。狩野派は「活法が要である」、つまり筆遣いが生き生きしていることが一番大切であるとし、その筆さばきの美しさによって、そこに描かれるものの本性、つまりそのものらしさ、活力、雰囲気を描き出すことが気韻生動を生じさせると考えている。

 日本文人画の世界においても、基本的にはこの考え方を継承している。気韻生動以外の他の五法は、構図、構成、作画スタイル、筆遣い、あるいは形の問題や色彩、といった制作上必要な具体的要素であった。それぞれがうまく作用すれば色彩が形態を引き立て,生き生きと味わいのある筆致が冴え、練られた構図が画面に流れやポイントを生み出し、全てのものが響きあい、お互いに作用しあって出来上がる交響曲のようなより大きな統合体としての響きと輝きが生れてくる。これはそれぞれの要素が独立して単独で優れていることだけでは生れない世界である。バランスとハーモニー、共鳴、全てのものが生かされ、それによって生れ得る何倍もの力をもった響きこそが魅力ある絵の条件であり、これこそが総合的な美の世界そのものである。気韻生動とは、まさにこうしたことを指すのであろう。

いけばなの世界 花の読みかた■さとうてつや 新潮社

意志の花■安達瞳子

 父・潮花の生き方について、彼女は「西欧の人間中心主義からすれば、素材は人間の心を表現する音符。無機物でも差し支えないことになるが、一輪の花に自然の摂理を凝視する日本の自然中心的な自然観を死守する父は同調しなかった」といったが、父の自然観はそのまま娘の自然観として受け継がれ、更に深められている。

 母性の花■岡田広山

 花に親しむということは、花が開いているときばかりを楽しむことではないのです。花の移ろいの姿を味わうことなの。

 自然は、芽吹きのときは勿論、(中略)朽ちてからも美しい。だから、自然の移ろいそのものをもっと味わって欲しい。

Back to top

Source Title

著作権は執筆者各位に帰属します。
転載する場合は、関西寒蘭会事務局までお知らせ下さい。

関西寒蘭会会誌編集部