日向の国。東は洋々と青海原が開け、神武東征の神話を産み、背後に霊峰霧島がそびえ、並び立つ峰々のうち、高千穂の峰は天孫降臨の地。西都原の古墳群、神話伝説に彩られたロマンの国。近代に至りこよなく酒と旅を愛したロマンチスト若山牧水を産んでおります。
光に満ち溢れた日向の国に寒蘭が生い育ち、寒蘭にロマンを求めた蘭入達の夢は大きく日向の蘭を全国に広めるとともに、全国の銘品を集め質量共に日本一の花会を開催されています。
寒蘭の自生地の蘭人達はお国目慢が強く、自国の花に強くこだわり、他国の花を軽視する傾向があるなかで、自国の花に深い愛情を注ぐと共に、全国の花に自国の花同様の愛情を注がれる日向の国の蘭入のロマンは壮大といわねばなりません。
十一月十六日・十七日、日向寒蘭宮崎県大会を訪ね、名人として全国に聞えた栗原稔さん・金丸良敏さんのお棚を拝見しました。栗原さんのお棚を拝見してまず気付いたことは、蘭室の中央に蘭が置かれ、通路は窓側.壁側につけられ蘭の周りを廻るように配慮されていました。
光線・通風がなるべく均等化されるようにという工夫かと思われますが、通路を真中にとり、両側に蘭を置く、一般的な配置と異なり、名人の配慮は]味違うと感心したものです。棚には上々作の稀貴品が並び、見学者一同を羨ましがらせました。
栗原さんは稀貴品の殖し方について懇切丁寧に教えて下さいました。稀貴品を増殖したいのは蘭人の念願ですが、その方法を教えて下さる方は少ないものです。それを初対面の我々に全てを教えて下さるのには感激しました。
その日の夜は永年の馴染の藤崎さんのお世話で懇親会が開かれました。趣味を同じくする者同士は有難いもので十年の知己のように蘭談が弾み、楽しい有意義な一夜でした。
翌日、花会会場を訪れ、昼食時に金丸さんのお棚を拝見しました。広い庭の一角に蘭室があり、天井が高く天窓が設けられ、通気性に意を用いられた蘭室でした。日向の国の気候・風土と蘭室の場所を考えてのことと思われました。通気性に配慮されるとともに、地面より一段掘り下げられ、乾き過ぎぬように配慮されておりました。
棚には栗原さんと同様全国の銘品が並び、特に「チャボ」の稀貴品が数多く並んでいました。栗原さん・金丸さんのお棚を拝見して、環境を考慮され細心の注意を払って創意工夫をこらしておられるのが印象的でした。広いお庭で日向の国にふさわしくサンサンとふり注ぐ太陽のもとで、持参した弁当を開きました。金丸さん宅の臼家製の漬物を出して頂き、都会では仲々味わえない故郷の味に、一同舌鼓を打ちました。
食事をしながらの歓談中、話がたまたま「覆面パトカー」に及びました。その時、渋谷会長が「覆面チャボ」と口走り、一同、一瞬工ーという感じで沈黙。次いで爆笑の渦また渦。最近、渋谷会長はゾッコン「チャボ」に惚れ込まれ、稀貴品の拾集に熱中されています。会長の脳裏には、日夜「チャボ」が焼き付いていたのでしょう。その上、つい先刻まで金丸さんのお棚で稀貴品「チャボ」の数々を拝見し、頭は「チャボ」で満杯。「覆面パトカー」というところを、思わず「パトカー」が「チャボ」に化けたわげです。
渋谷会長は在職中、職場と自宅が至近距離だったので、仕事中に蘭のことが気に懸かると、仕事を中断し蘭を見に帰られた由。蘭に対する思い込み・情熱・愛情は並々ならぬものがあります。
「覆面チャボ」の件でふと思い付いたことがありました。それは、我が身の蘭に対する態度でした。私は蘭を入手する際に、何よりも花の美的価値と金銭的価値とのバランスを重視するのをモットーとしてきました。
私が蘭を始めた頃は西谷物の全盛期でした。私は、花の美的価値は認めても金銭的価値がベラボーに不釣合で、馬鹿々々しい気分になり、欲しいとは思いませんでした。寒蘭熱烈愛好者のヒンシュクを買うかも知れませんが、当時一千万と騒がれていた『豊雪』よりも、私の好みにもよりますが、一株数千円の中国春蘭『宗梅』の方が美的価値は上だと思っていたのですから……。
まあそれはそれとして、ふと思い付いたことというのは、どうも目分は蘭に惚れ込んでいないな……ということでした。渋谷会長のように、蘭に惚れ込んでいるのなら、ただ欲しいの一念で他のことは考えない、考えられない、というのが本当ではないかということでした。こう考えると、我が家の蘭が全く不出来な原因がわかってきました。蘭に惚れ込んでいない私の姿を見て蘭達は、「こんなオッサンに養われるようになったのは身の不運」と完全にソッポを向いているようです。
作でいえば『日光』のような作り易い木を性懲りもなく枯すこと三度。枯らした時は生あるもの生命を奪った自責の念に駆られますが、間もなく「生者必滅」は世の習。「ナムアミダブツ」でハイおしまい。あまり口惜しいとも残念とも思わず、どうしても欲しかったら、そのうち金を貯めて買やあいいや、といった調子。蘭に惚れ込んでいる人なら桔した無念さに夜も寝られないくらい悩み、反省し、さまざまな工夫をされ、道を開かれると思います。
花に関しても作同様、進歩が見られません。むしろ初心者の頃の方がまだましでした。三十年来、毎年毎年本花会(うちの会では早花・本花・晩花と三回開催)に出品していますが、一度として入賞の経験なし。ギネスブックに掲載されてもいいような珍記録の持主です。それでまあよく三十年間蘭が続けられたものだと驚かれるかも知れませんが、 一つの秘密があります。
私は年金生活に入るまで教師をしておりました。慣い陸となって、なにかというと講釈をしたがります。うちの会で私のことを「『手八丁口八丁』というが、アイツは口はそこそこ達者だが、手の方は一丁」というのが通り相場になっております。このことは自他共に認めるところでありまして、本人は「『作下手・咲かせ下手』で三十年以上蘭が続げられるのは、あることないことつきまぜて、講釈する楽しみがあるからよ」と平然とうそぶいております。
「覆面チャボ」から話が横にそれました。花会の会場、MRTミッワのダイヤモンドホールは天井の高い立派な大ホール。出展数三三八鉢。質量共に日本一の花会にふさわしい会場です。
総理大臣賞は、新花で時流にのっている青花大輪.ベタ舌風・弁色も濃く、花型は端正・弁の切れがよく、花間も豊かな良花でした。トップ賞授賞を機に『大吉』と命名されました。
会場には全国のトップクラスの銘品が綺羅星の如く並び、眼福を得ること間違いなしというところです。日向の銘花『日向の誉』『司の華』などは入賞花がそれぞれ七点ずつあり、上位の賞・下位の賞花を見比べられ、花を知る上で参考になりました。紅花の部で『華神』.『日向の誉』の部門が設けられていたのも、日向ならではの想いを強くしました。
審査部門が細分化されていたのも大きな特色でした。紅・更紗・青は無点・有点に分けられています。公平を期し、審査しやすくする合理的な方法だと思われます。
素心は素心と準素心。ベタ舌は青べ夕舌とその他のべ夕舌。小花の部。奇花の部。入工交配の部。チャボの部。葉チャボの部。柄物の部に分けられています。それぞれの部門に金銀銅の賞があります。部門別の細分化はまず何よりも出品数が揃わなげればなりません。出品数が揃うということは会員達の熱意の賜物です。部門別を細分化することは、出品者の熱意に応える極めて効果的な方法だと思われます。
会場で気がついたもう一つのことは、会場の中央に業者のコーナーがあったことです。 一般の花会会場では、正面雛壇に向っ.て会場の中央に何列かの飾棚があり、業者のコーナーは入口の壁際の辺りに置かれております。この場合、業者の売店は花会のお添え物的な印象を持つのは私の独断でしょうか……。
花会の中心はいうまでもなく花です。しかし、花会に出かける蘭人達は花を見る楽しみと共に蘭を買い、さまざまな蘭を見る楽しみも大きなものがあります。花を楽しみ蘭を買い、さまざまな蘭を見る楽しみ、一石三鳥の楽しみがあってこそ会は盛り上ると思います。
花会会場の片隅でなく中央に業者のコーナーがあることは、会場中央に人の波・渦ができることです。会場の片隅に入が集まるより、中央に人の集まりがある方が、会場の熱気を高めるのに効果的なことはいうまでもありますまい。会が盛大になればなる程、業者の協力なくして、一層の発展は期待できないでしょう。
日向寒蘭宮崎県大会を参観し、日向をはじめとする全国の銘花に酔うとともに、日本一の花会を運営される会長.役員会員の方々のさまざまな創意工夫・配慮に感じ入りました。我々にとって実に有意義な二日間でした。
末筆ながら、お世話になった児玉国光会長はじめ、役員・会員の皆様、なかんずくお棚を拝見し、いろいろご教示頂いた栗原稔さん・金丸良敬さんに厚く御礼申し上げます。今後ともよろしくご指導ご交誼の程、お願い致します。
寒蘭に自然観を感じ、自然観を探し求めていたこの三年ほど、屋久島を又屋久杉を観に行けば何か感じる事ができるかもしれないと、決行を決めたのが今年の初めだった。
いろいろ下調べする中、縄文杉まで日帰りで十時間はキツク、この老体二人では無理せず山小屋で一泊する事を基本にして屋久杉に会ってこようと決め、白谷雲水峡を始めとして、縄文杉まで行き、近くの高塚小屋で一泊。ヤクスギランド、千尋の滝等を主目的に四泊五日の島一周の計画を立てた。
七月十八日大阪南港から鹿児島志布志港まで船旅、志布志から桜島を眺めながら鹿児島へ鹿児島市内観光をして時間を過ごし、鹿児島で一泊、翌朝鹿児島港から屋久島へ、近づく屋久島は薩摩半島、大隈半島、種子島などとやはり違っていた。まだ梅雨明けはしておらず山は雲を抱いていたが、周囲百kmの小さい島ながら二千㍍に迫る山があるだけに雄雄しく見えた。昼過ぎに宮之浦港に着く。港をはじめ町並みは素朴で海岸沿いに点々と人家等が見えるが急峻な山並みが目立った。その日は宮之浦の町を、環境センター、屋久杉自然館等を見学。宮之浦の民宿で泊まる。翌朝白谷雲水峡登り口まで車で三十分、登山用具を調え、午前九時前に出発 登山口で名簿に記入、入山料を払い管理棟のおばさんにコースを聞かれ、縄文杉に四時頃着くでしょうと言われ安堵すると同時にゆっくり登れると思ったのでした。
しかし、登り始めると急登で初日から息絶え絶えになる。しかし屋久杉、苔むす大地に魅せられながら、屋久鹿にも励まされながら辻峠まで三時間ほど掛かった。まだ先は長いと思いながらも辻峠から三十分程の所に太鼓岩があり見晴らしが良いと屋久フェリー船上で教えてくれた人があり、そちらに向かう。太鼓岩では確かに見晴らしは良かったがガスがかかり山並みは見えなかった。ここで昼食を取る。
屋久島は半日歩いただけだが、水の島といえるだろう。白谷雲水峡も常に水の流れる音が聞こえていた。ここでも小さな滝のような音と流れが見える。太鼓岩を後にして辻峠を下ればトロッコ道まで少しの道のりと思っていたが約一時間掛かる。途中 道を間違えたかと思うばかり遠く感じた。案内地図ではほんの近くなのである。やっとトロッコ道に出たと言う思いと予定時間をオーバーしており、少し頑張らなければ、高塚小屋の到着に日が暮れるという焦りが出始めてきた。なだらかなトロッコ道で遅い女房の足を引っ張る積りで歩を早めた。道案内では大株歩道まで一時間、途中下山者に道を譲ったり、譲られたりしながらやはり川の流れを聞きながらの歩行が続き一時間を経過、しかし未だ着かない。道案内は健常者の足取りか、自分の老化が進んだ結果なのだろうかと恨めしく感じながらも一時間十分かかってしまう。ここで挽回するどころではなかった。一休みしてここからが正念場と自分に言い聞かせ、急登に立ち向かう。ウィルソン株まで三十分あまりここでも道案内時間を超過、このウィルソン株は切り株だけだが太閤秀吉が島津家に上納させた切り株だとある。株の中は畳十畳ほどの広さ、神体が祀ってあり参拝、湧水がある。水を戴きなお、夜食用の水として2リットルをペットボトルに詰める。到着時間を気にしながらウィルソン株を後にする。大王杉まで一時間あまり、いよいよバテてくる。夜食用の水2リットルの水が肩に食い込み、腰にも痛みを感じ出した。(この旅の前に腰を痛めていた)腰と肩が繋がっている事を痛感、肩はパンパンに張ってきた。百メートル歩くと休み五十メートル歩くと休み、息絶え絶えになる。下山客にも会わなくなり、もう縄文杉まで近いと女房に言いながら、一歩一歩前進という状況であった。そして、それらしき人工の階段がありやっとたどり着く。午後6時であった。縄文杉は矢張り大きかった。圧倒される。つい手を合わせる。先客が一人、百名山を目指している岡山の人で我々を追い越して行った人だった。お互い写真を取り合いその人は高塚小屋のスペースをとっておくと先行した。
女房と二人きりになり縄文杉を独占。コーヒーとウィスキーで乾杯を上げた。現在縄文杉には立ち入りが禁止されているが対象になる者がいなければ写真での縄文杉の大きさが分からないだろうと思い謝りながら縄文杉にタッチ。(写真)
高塚小屋では十人ほどが外で食事後の歓談に花が咲いているなか押しかけたが歓迎してくれる。先に陣取りをしてくれていた人に夜具の準備をすすめられる。山の日暮れは早く、夜食を済ませた七時過ぎには薄暗く、片付けもそこそこに寝袋の中に入る。締め切った非難小屋は蒸し暑く人のいびきもあり、寝付けなかったが何時の間にか寝てしまっていた。
翌日は良く晴れた(梅雨明けしていた)素晴らしい景色のなかコースを変えながらの下山となる。そしてその後ヤクスギランド、トローキの滝、千尋の滝、大川の滝、ガジュマル園など廻るが、平穏に過ぎた。雨にも遭わず、屋久島での四泊五日の旅は終わった。
屋久島は先にも言ったが水の循環の島だ。例を見ない島だと思う。黒潮の恩恵を受け、高い山と水、苔が織りなすハーモニーのように感じられた。高い山は黒潮から上がった水蒸気を冷やし、膨張し、霧となり雨となる。この循環が屋久杉を育てた。屋久島は花崗岩が競り上がって出来た岩盤の島である。島の人は雨の多い屋久島の水は蒸留水と言っている。したがって山の水には魚も住めないと言う。又島の山の水はどこでも飲めるのだそうである。こういう所だからこそ屋久杉が育つのだろう。栄養も少なく年輪が密で長生きでき、樹脂は木を腐らないようにしているのである。御承知のとおり屋久杉とは千年を超えた物をいいそれ以下は小杉と言っている。人口植林の杉は地杉である。又屋久杉は標高八百メートルから千六百㍍の比較的高地で生えている事も環境が適しているのであろう。ちなみに縄文杉の生えている場所は一三〇〇㍍ほどのところである。木の胸高周囲一六㍍あまり、直径五㍍あまり、高さ約二五㍍と比較的低い。これは高地で風などの影響の所為だろう。
この環境を変えないように人間は考えなければならない。登山道を見ても根が踏み荒されささくれた根は見るに絶えなかった。これからも大勢の人間が訪れるであろう。山小屋も避難小屋と言うことであるが、入山料を値上げしてでも、最小限環境を守る為の開発が必要だと思われた。これまで人間は山の恩恵を受けながら、損得勘定だけで山を見てきたように思われる。屋久島には分かりやすい自然そのものが残っている。これは国の財産である。いや地球の財産である。屋久島にも寒蘭があるのは知っているが目に付かなかった。寒蘭がありそうな西部林道沿いの山は屋久ザルが多く、車を止められなかった。というのも、ヤクスギランドからの帰り道屋久サルを見つけ近づいた瞬間車に飛び乗られ、三十分間ほど餌を出せと粘られた。このサルは相当経験を積んだサルのようだ。人間から餌を取れると知っていた。
横道にそれたが、ヤクスギランドは皇太子が視察にきたようだ。屋久杉を守るようによく整備されていた。愛子様にも、愛子岳、縄文杉に御行幸願わなければならないのか。
皆様もどうか感動を掘り起こしてもらいたい。自然観を感じた時ほんの少しの時間をその事に思いを馳せていただきたい。そこには必ず環境を守る何かの示唆があります。寒蘭を守り地球を守るのはこれしかないと思いますが如何でしょうか。屋久島の自然がこの後も永久に続く事を願い、つたない文を置く。
合掌 平成十五年八月十五日
Source Title
著作権は執筆者各位に帰属します。
関西寒蘭会会誌編集部
転載する場合は、関西寒蘭会事務局までお知らせ下さい。