寒蘭の多様性 ― 一筋縄でいかない面白さ ―
山内 敦人
「舌の芸」・「舌点の芸」
ここ十年来、寒蘭の「舌の芸」が注目されています。「べ夕舌」・「垂れ舌」・「チャボ」などに見られる「お多福舌」などがもてはやされています。
最初に「舌の芸」が注目されたのは「素舌」「全面無点系舌」でした。その後十年ばかり「舌の芸」に対する関心が薄れていました。
元来、東洋蘭鑑賞の元祖は中国で、日本でもほぼ中国の基準をお手本にしています。中国では「弁型」は言うに及ばず「舌の型」・「舌点の型」にまで目を配り鑑賞の対象としています。
日本では、中国春蘭愛好者の間では鑑賞の基準として尊重されましたが、寒蘭界は余り関心を持たなかったようです。「弁型」はいうに及ばず「舌の型」・「舌点の型」ー「舌の芸」「舌点の芸」は、東洋蘭の魅力のポイントと認識した中国人の美意識は見事という他ありません。
「素舌」「前面無点系」をとりあげた時点で、「素舌」前面無点系は「舌の芸」だという認識を明確にしていたら、「べ夕舌」・「垂れ舌」・「お多福舌」も「舌の芸」として関心を持ったのではないでしょうか。「素舌」「前面点系」が注目された頃は、西谷物を中心に中輪咲の寒蘭らしい寒蘭の全盛時代でしたから、調和のとれた「素舌」「前面無点系」が評価されたのでしょう。それはそれとして寒蘭界は「舌の芸」は鑑賞の一つのポイントだと捉える突込んだ観方ー事の本質を捉えるより普遍的に見ようとする観方1に欠けているようです。
「舌の芸」が鑑賞の一つのポイントと捉えれば、寒蘭は春蘭以上に[舌の芸」の多様性を持っており、「舌の芸」が花の味わいに与える影響は、春蘭より顕著なものがあり、寒蘭の美とは、多様性に富んだ面白さにみちみちていると捉えられると思います。
「舌点の芸」ー舌点の打ち方も最近注目され「ベタ舌」も打ち方の一つでありましょう。「ベタ舌」でなくても、「ベタ舌」に近い舌点の強いもの、逆に舌点の打ち方が少なくて特色を発揮しているものなど多様です。
今注目されているものは、言うならば個性的な点の一見それと捉えやすい打ち方をしているものですが、単に舌点だけに注目するのでなく、舌点の色・舌の大小・舌点の並び方との関係、更に弁型・弁色・舌の色・子房・花軸との綜合的な関係性に目をむけるべきだと思います。
このような観方から見れば、舌の点の打ち方が一見個性的でないものでも「舌点の芸」として捉えられると思います。
例をあげれば桃味の強い小点が型よく並び、舌の色が白味の強いもので、花型の良い桃更紗の花などは美的価値が高く、数も少ないものです。阿波吠喰大谷の『大寿』などは、舌点は平凡ですが、舌点の色と子房・花軸の色がほぼ同色・弁色も黄味が強く、潭然一体となっていい花です。舌点の色・子房花軸の色がぼぼ同色という青花は案外少ないものです。
寒蘭の魅力は「舌の芸」「舌点の芸」が一つのポイントになりますが決して全てではありません。「弁型」「弁色」更には子房の色・長さ・花軸との綜合的な関係性を見なければなりません。綜合的な関係性とは単なるバランスではなく、それぞれのものが相互にどんな関係性をもって花の魅力を醸し出しているかということです。
「匂うという言葉があります。現在は臭覚に訴えることだけを指しますが、古くは、相互に影響しあって相乗効果を産み全体像を美的に高める、という意味で使われていました。寒蘭の魅力、更に美しさは「匂う」ことにあると思います。それだけに多様で複雑な味わいをもつものだと思われます。
ついでながら、よくいわれている多芸品について触れておきます。多芸品は多様性の一つで尊重すべきものでしょう。一般的に芸が多ければ貴重視されますが、芸と芸とが匂い合ってこそ意味があるので、芸の多さだけなら希少価値はあっても美的価値があるとは思えません。
寒蘭の美についてわび・さび・幽玄などといわれます。いずれも見せかけの美でなぐ、熟視頑味しなければ見えてこない美です。にもかかわらず、寒蘭界では単にバランスの良いもの・印象度の強いものがもてはやされる傾向性が強いように思います。これでは、わび・さび・幽玄美は大型かつ華麗・豪華さに対する対極的な美に終ってしまうでしょう。寒蘭の持つ芸の多様性とは何かを問い、芸の多様性の相互関係性を捉え、「匂う」ことの意味を考えて見ることは、一興かも知れません。
典型と破格
私が蘭をはじめた三十年前は、寒蘭の美とは、細幹で葉上にすっきりと抜け、花間よく四方咲・子房は長からず短かからず、花軸に対しバランスの良い角度を持ち、葉姿との調和よく、花弁はすっきりと伸び、弁の切れのよいもので、一文字・平肩・三角咲。西谷物を中心とした中輪咲が清楚・端正・優美・気品に溢れた存在としてもてはやされ、寒蘭の美的価値はこれで決まりといった風潮がありました。
寒蘭の花型を見ると細く、長く、弁質の薄いのが特色です。この特色は他の東洋蘭と一味も二味も違っており、寒蘭の存在価値を高めています。特に、弁の切れ1弁元から弁先への流れーの良いものは魅力溢れた存在です。従って、前述した寒蘭の美的価値が生まれてくるわげです。
しかし、寒蘭界が盛況を呈し会場が大型化するなど動機はともかくも、大輪花が端正さと伸びやかな力動感を持って登場してくると、花にふさわしく花軸も太くなりました。その上「べ夕舌」・「垂れ舌」・「お多福舌」・「チャボ」が登場してきました。寒蘭の多様性を発見し、多様性故に、活況を呈して来ました。「垂れ舌」・「お多福舌」は、一般的な正統な「巻舌」に比べたらやや型変りで、きっちりと型よく巻いた「巻舌」に比べると端正さに欠けますが、寒蘭の舌はよく見ると、花弁に対しやや小振りのものが多くー咲き始めはともかく咲ききると細るものが多くー完壁なものが少ないものです。その上「舌の芸」・「舌点の芸」を顕在化させるのは、「垂れ舌」・「お多福舌」の方がふさわしいと思います。騒がれる資質は十分持っていると思われます。
「べ夕舌」・「チャボ」は、従来いわれていた寒蘭の美からいうと、破格の異端児といえるのではないでしょうか。「ベタ舌」のクドサ、「チャボ」のズングリムックリした寸詰りの舌足らずさ、いずれ清楚・端正・優美・気品とは全く異質です。特に「チャボ」は広弁・短弁型で、伸びは悪く花間は詰り気味。一部の好事家以外は省みなかったのは当然かも知れません。
時代の風潮というのは面白いもので、流行り出すとその勢は止め難く、昨今はかつての古典的な銘花達は影の薄い存在になりました。「ベタ舌」・「チャボ」の流行は単なる流行だけでなく、動機はともかくも寒蘭の美の多様性の発見という意味を持っているのです。
「べ夕舌」の持つクドサは、パンチの利いた強烈な存在感を持っています。そして優品はそのクドサを「妖艶」、時として「怪奇」・「特異」な美に昇華させています。「チャボ」についても寸詰り、舌足らずさはユーモラスな愛敬ー諧譫味・可憐さーを待っています。「チャボ」のような短弁・広弁・広舌花は、花軸が伸び葉上高く抜け、花間をとり、四方咲に咲いたら間伸びがし、鑑賞価値を損うでしょう。輪数の少ないものなどは、洋蘭風に同じ方向に向ける方がよい場合もあると思われます。
昨今「大輪花」・「べ夕舌」・「垂れ舌」・「お多福舌」・「チャボ」の美の発見は、単なる流行のそれでなく、寒蘭の多様な美の発見という意味を持っているのです。なかんずく、「ベタ舌」「チャボ」の美の発見は、破格異質の新しい美の発見という画期的な意義があると捉えなければなりません。流行は一時の現象です。流行の去るとともに、「ベタ舌」・「垂れ舌」・「お多福舌」・「チャボ」が忘れ去られるとしたら、寒蘭界とは物事の本質を見ようとしない存在だということになるでしょう。
「べ夕舌」・「チャボ」Fの異質の美の発見は、かつてこれで決まりと思われた「寒蘭の美」の絶対性の否定という意味を持っています。かつての「寒蘭の美」は細く長く薄い弁質の持つ寒蘭の花のもっとも寒蘭らしい典型的な美ーお手本になるような美1だったのです。
ただ面白い現象が見られます。影の薄くなった古典的な銘花ですが、各地の花会を見ると結構健闘し、上位の賞を果たしており、流行の最先端を行く「チャボ」は「チャボ」の部門を設けてやらないと入賞できないような状態です。古典的銘花の美が典型であることを端的に示している証拠だと思われます。
私個入の好みで言えば、中輪咲の古典的銘花こそ最も寒蘭らしい寒蘭だと、頑なに信じ込んでおり、「ベタ舌」・「チャボ」は余程の優品でなければ食指が動きません。私のような傾向を持たれる方も間々あるかと思いますが、「ベタ舌」・「チャボ」が寒蘭の美に対して与えた意義は、個入の好みとは全く別間題です。寒蘭の持つ多様性が末永く共存して行ってこそ、寒蘭界は活況を呈するものと思っております。
人工交配種
最近入工交配種のよい花が出始めました。賛否両論があるようですが、大勢として受け入れることになると思われます。よいものはよい、美しいものは美しいとして受入れたらよいと思います。ただ、交配種ということは明記すべきだと思います。
入工交配種の登場は一層寒蘭界の多様性を増すことになるでしょう。ただ、次の点は明確に押さえておくべきだと考えます。潔癖な入達は自然種に拘わり入工交配種に異を唱えますが、本来、東洋蘭は白]然のままの原種です。寒蘭も野生の原種の小型シンピジュウムです。洋蘭との決定的な違いは、入工的な交配が行われていないということにあります。
自然の野生種を目然種、原種として保全して行くことの意義は重大なものがあります。野生の原種には、その根底に人工交配種にはない凜とした強靱な野生の生命力が宿っています。野生の原種の持つ強靱な生命力が美的にどのように現われているかーこのことこそ東洋蘭の持つかげがえのない価値だと思います。
人工交配で花の普遍性ー丸型・色の濁りない澄明さーに向って改良に改良を重ねた洋蘭の美に対抗できる美だと考えます。
洋蘭の世界でも原種があり、改良に改良を重ねた交配種の対極の存在として尊重されています。原種に対する尊重の念は入間の故郷を想う念と同様に、普遍的なものかも知れません。
寒蘭の人工交配を行うことは一足洋蘭の域に踏み込むことになります。ただ、このことの是非を間うよりも、事の本質をしっかり押えておき、原種を臼然のまま保全することの意義をわきまえ、交配種と原種の美的な差異をしっかりと認識することだと思います。寒蘭の場合は仲々判別しにくいとは思いますが、感性・美意識を磨くことに心掛けるべきでしょう。
今、「えびね」の世界は交配種の全盛時代です。神戸国際蘭展で「えびね」の交配種と原種を見比べて、東洋蘭の愛好者の多くは、交配種よりも原種の方に親近感を抱いていました。仲々面白い現象です。
ここでも物事の本質を間うことの重大な意義が間われているように思います。交配種が見事だからといって、原種の寒蘭は単なる交配用の種木視してしまうようでは、寒蘭界の見識の無さを露呈することになるでしょう。また反面、頑固に交配種を排斥することも視野の狭さを物語ることになるでしょう。
聞く所によると、寒蘭の遺伝因子を測定すると幅が広すぎて、寒蘭の遺伝子の典型はこれだという同定ができないそうです。ということは、白然の中で交配が行われているということではないでしょうか。寒蘭の多様性の秘密の一つはこんな所にあるのかも知れません。
寒蘭の持つ一筋縄で行かぬ面白さは、大いに生かされるべきだと思います。入工交配種の問題と本質をしっかり押えた上で、より寒蘭界を豊かにするために、肯定的に捉えた方が良いと思われます。
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