追い求めた「力 王」
中山 吉晴
私が、嬉野肥前愛蘭会へ入会した昭和四十年代後半には、花の薀蓄を語る多くの先輩がおられ、色々な事を学んだ。知りたい花があれば、登録されている棚を訪れ、その花の誕生秘話や由来、経緯を聞き、それらを知った上でないと花の特徴へは話が進まなかった。いずれも興味深い話ばかりで、それらを聞ける事が嬉しかったし楽しかった。
最近の愛好者の気質は、随分と様変わりした。入賞を目的に花を求め、入賞すれば更に上を狙い、しなかったら落胆する。花の由来も語れず経緯も知らず、それで真の愛好者たりうるだろうか…。
まぁ、それはさて置くとして、私の棚には多くの登録花(嬉野)がある。十年程前まで、棚の全ての鉢には名前や産地を記したラベルは立てていなかった。ほとんどが登録者元へ足を運び分譲願ったもので、一鉢一鉢の葉性や葉姿を見れば、その頃の情景が脳裡に浮かび、ラベルに花名や相手方の名等を記す必要はなかった。と言ったような話をしぃさん(渋谷会長)にしていたら、突然『吉さん、それならその話を今度の会誌に書いてくんなはれ!』という事になり、登録者橋口力男氏からM医師を介し棚入りした「力王」について書く事にした。
昭和四十六年十一月嬉野肥前愛蘭会の柄沢正一会長と山下輝夫登録部長と瀬頭平吉、五町田酒造社長(我が師)の四人をポンコツのベンツ(社長の愛車)に乗せ、長崎寒蘭愛好会の展示会へと向った。長時間の審査で、農林中金二階から眺める長崎は既に夜景になっていた。
審査状況は、松尾直人副会長出品の白遊天(桃腮素・球磨産)と馬場福松氏出品の無銘更紗舌無点花(後の翔鳳)が同点となり、決戦投票が行なわれた。
審査風景や集計状況を食い入る様に見ていて、地元西彼産である無銘更紗花は無点、弁と舌が巨大で広く厚い、総合優勝になればいいのにと願ったが、結果は違った。
初心者の私に、花の良し悪しが判るはずはないが、ただ収穫だったのは、会場でその更紗無点花、後の翔鳳と甲乙つけ難い花が、西彼幸物部落の橋口力男氏が育てている、と小耳に挟んだ事だった。同氏は自分の名前を称して当時から自称「力王」と呼んでいた。
その翌日から力王を狙い、社長さんと二人で幸物詣でが始まった。小さな店すらない西彼の山の中、時には肉を土産に、またある時は魚を持って、目ざす力王への下心は決して表さず。しかし話し込むうちに、どうしても力王へと話が及ぶのは致し方なかった。勿論分譲を頼んだりはしなかったが、力王の坪すら明かしてはくれなかった。
翌年、昭和四十七年に力王に花芽が着いたと聞いた。二人で作戦を練った。まずは必ず嬉野の展示会に出品させ、世の中には色々の名花がある事を知らせ、その上で分譲願おう、というものだった。
審査前日の午後二時ごろより、例のベンツで三時間弱の道程を二人で迎えに行き、後部座席に橋口氏と力王を鎮座させ、嬉野温泉塩田川河畔のうなぎ屋旅館へ投宿させた。うなぎ屋は、五町田酒造の酒(日本一や東一)の取引先であるし会場にも近いからだ。
果たせるか審査結果は、更紗の部天賞は、馬場福松氏出品「翔鳳」(同年新登録・前年の長崎展は無銘で準優勝)地賞が橋口力男氏出品の「力王」(同年新登録)と決定した。高すぎる橋口氏の鼻を折るのは成功、作戦は見事的中したかにみえた。
搬出の日、会場の後片付けのため私は橋口氏を送って行けなかった。社長さんが送って行ったが、西彼の山道へ入りしばらく走った頃、天賞になった馬場氏宅の前で車を止めてくれと橋口氏が言った。橋口氏は車を降り馬場氏の裏に廻り、何か納得した様子で戻って来た。そしてその戻りしなに馬場氏の前方に連なる山の稜線を指し、あの山の向こうの谷(白西平)が力王の坪と教えてくれたという。
それから二週間程して、そろそろ鼻も低くなり心の整理もついているだろうと橋口氏を訪ねた。そして、この一年間封印してきた分譲の二文字を、初めて社長さんが口にした。ところがその返事は唖然とするものだった。
展示会の翌日、佐賀から力王を分けて欲しいという人が来た、バルブ付のバック一本を分けてやった。申し訳ないがあなた達に分ける力王はないという返事だった。そして橋口氏は力王と翔鳳の差は、展示会の帰りに馬場氏の蘭舎を見て気が付いたので、蘭舎を建て直したと語った。その蘭舎を横目に、トンビから浚われた獲物の大きさに、肩を落とし辞した。
トンビの実体は不明だったが、五年後の昭和五十二年、嬉野の展示会へM医師の手により力王が出品され、実体が明らかになった。更にその力王は第二回日本寒蘭九州連合会という大きな舞台へ出品され、大反響を呼んだ。
翌年の二月、母から積立が満期になったので、将来の独立資金に定期預金しておきなさいと証書を貰った。私は二度と我儘は言わないから、今回だけは自由に使わせてもらえないかと懇願した。それを手に幸物の橋口氏の元へと走った。ところが数年振りの力王は変わり果て、小木の三本立で凍傷になりバルブが真っ白くなっていた。私自身が対力王で土俵に登ったのは初めてであったが、所望もせず見せてもらっただけで帰った。橋口氏の力王を見たのはこれが最後であり、その後の力王については知る由もない。
昭和五十三年当時副会長だった山口光二氏が他界された。奥さんと二人住まいだったので、入院されるたびに私が蘭の世話をしていた。その山口氏が元気な頃、M医師が時々蘭を見に来られると聞いてはいたが、その年の花の時期に、偶然にも山口邸で鉢合わせになった。私の顔を見るなり〝君が中山君か、土佐や薩摩、日向の花は褒めるが、どうして肥前の花はけなすのだ、毎年会誌を読んでいるがあれはいかん〟と言われた。
「いや、そんな事はありません、公平に評価していますよ」と答えると「例え君が来ても俺の蘭は見せない!」「結構です」と問答した。蘭に関しては主義主張を変える訳にはいかなかった。でも待てよ、見せない!と言うことは来なさいという意味にもとれる。翌日の夜、思い切って病院を訪ねた。前夜の会話の續きで、俺が正しい、いや私が正しいと、そんな会話でM先生との付き合いが始まった。
三年程経った昭和五十七年の春のある日、M先生から電話があった。力王を買いたい者がいるが幾らで売ればいいだろう、との事ことだった。一瞬、えっ力王を!と動揺したけれど、平静を装い一芽○○万でしょう、と答えた。電話を切った後「力王を持っていかれるのか?シマッター」と焦ったが、ここは奥さんに直談判しょう。先生は朝六時から診察され、夜は八時半に床に就かれる。眠りに就かれた八時半に自宅へ行き、奥さんに力王を私に譲ってほしいとお願いすると「あなたには一本差しあげると主人が話していたでしょう」と言われたが「何年も待つより欲しい蘭は買う方が気が楽です」と重ねお願いした。
翌日、先生から力王を取りに来るようにと連絡があった。中木三本立の力王が二鉢並べてあった。どちらでも好きな方を持って行けばよいとの事で、値段を問うと、「昨日の電話で一芽○○万と自分で言ったろう」とのこと。私には少し安くしてもらえると思っていた考えは甘かったが、小踊りして待望の力王を持ち帰った。かくして長い間追い求めた力王を、手にすることができた。
その秋になり相談があるから来てくれ、と先生から連絡があった。もう一鉢の力王を誰かに売ってくれないか、と言う事である。それではと力王を預かり持ち帰った。帰りながら、力王は再度名花として仕立てない限り人に渡す訳には行かないと悟り、持ち帰るなり直ぐ植え替えをした。
ところが肝心の資金が足りない、手持ちが一束で妹から借りても二十たりない。それに二鉢を私が独り占めすると、先生にすれば力王がそんなに魅力のある花なら、一鉢持っておくと言い出しかねない。ここは一鉢を社長さんに買ってもらうこととして五町田酒造へと足を運んで勿論了解してもらった。早速、一束を持って病院へ駆け込んだ。時刻は二時を少し過ぎで、この時間帯は午後の診察で奥さんと二人きりになる。家庭といわず病院まで全ての決定権を握っておられる奥さんに、懇々と寒蘭の実情を話し、味方になってもらいたい。
さりげなく柄物の新世紀の話を持ち出した。実は先日、新世紀と言う蘭を売ろうと知り合いの業者にセリに出してもらった。相場的には、中木三本立○百万と価格表には書いてあるが、実際は○○万までしか声が掛からないと連絡があり、その価格では売りたくないと持ち帰ってもらった。それから一ヶ月もしない内に、セリ値価格の半分にまで下落してしまいました。だから蘭は買い手がついた時が相場で売った方がいいです、と説いた。丁度その時、病院の方から先生の足音が近づいた。
先生に、力王の買い主が、五町田酒造の社長さんが欲しいと言われるのですが、実は百○○万にならないかと言われるので、と話すと気前の悪い先生から声が出ない。奥さんの出番ですよ!と心の中で祈ったことだ。すると「いいじゃないですか十万位まけなさい」と助け船が、「よかたい」と先生が返事された。
手付けに○○○万だけ預かって来ていますのでと手渡すと、先生は帯を解き数え始めた。金持ちはケチと言うけど、一回数え終え、再度数え始めた。何たる事だ、と思っていたら直ぐに右手が止まり抜き取られた。
確か十万貰えば妹に借りた四十に足して五十になり完済になる。と瞬間に計算したけれど、一度や二度と促されても実権者の奥さんの一声がなければ受け取る訳にはいかない。早く奥さん一声と思っていたら〝中山さんのお陰で売れたのだから貰っときなさい゛と声が掛り心置きなくいただくことにした。かくて経緯の明確な「力王」は暫く間、私が独占することになる。
今は何をかつつむべき、我はみなもと源牛若
義朝の御子か、さてなんじ汝は西塔の武蔵
弁慶なり、たがいに名のり合い互に
名のり合ひ 降参甲さん御免あれ
小人の御事我は出家くらい位もうじ氏もけなげ健気さ
も良きしう主なれば頼むなりそこつ粗忽にやおぼ思
しめすらんさりながら これ亦三世の
きえん機縁の始 今より後は主従ぞと契約
固く申しつつ・・・・・
と謡曲の橘弁慶の最後の下りを、主の牛若を自分に従の弁慶を力王になぞらえ謡って帰った。
嬉野肥前愛蘭会会長
関西寒蘭会顧問
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