時空と寒蘭文人作り
森江 潤二
はじめに
私は、寒蘭から受けた感動をどのように理解すればよいのか、ここ数年考えてきた。ただ自然観だということだけで片付ける訳にはいかなかった。
三十五~六年間、寒蘭と共に寒蘭から受けた感動を、見知らぬ入にも味わってもらいたいとの気持ちで花を咲かせ、出展してきた。まだまだ十分に感動を与えたとは言えないが、私の蘭入生のげじめとして、今回、生命の始まり、地球の生い立ちにまでさかのぼり、なにか見つかるのではないかとの視点で何冊かの文献を漁ってみた。ある程度の仮説のようなものを頭に置きながら、
"蘭(生命あるものすべて)と人間"、"地球(宇宙)と生命"のかかわりの中から感動の糸を引き出せるかを試みたのである。
現在の分子生物学、地球物理学といったあらゆる分野の発展は目覚ましく、時々刻々といった感じで人類の英知に驚くほかはない。私の平凡な頭では理解に苦しむことも多々あり、ここに記すのはあくまでも私個入の推測でしかないことを御承知おきの上、読んでいただげたら幸いである。いずれ、もっとスッキリした感動の根源が解る時がくるとは思う。
今回、三点の新しい知見を得たと思っているが、納得していただけるかどうかは皆さんの御判断にゆだねたい。
生命の根源は一つ
地球は四十六億年前に太陽系の惑星として生れた。しかし、一代目ではないようある。
天の川銀河の一員として、銀河の中心から三万光年くらい離れたところに位置しているようである。勿論宇宙の中心でもない。地球ができて生命ができるまでに、八億年ぐらいかかっている。水が残り、海と大陸ができたことが幸いしたようである。大気中には二酸化炭素、窒素、水といった分子があり、海底からはメタン、水素、硫化水素、アンモニアといった物質が吹き出していたが、いずれも数個の原子からなる単純な分子(無機物)である。しかし、太陽からは地球の地磁気が弱かったため、放射線や紫外線が降り注いでいたようである。また、地球が冷えてきたといっても海から水蒸気が上がり雨となり、雷もいまの比ではなかっただろう。大陸に降った雨は二酸化炭素を含み、岩石を浸食し、カルシウムとかマグネシウム、ナトリウムなどの陽イオンとなり、毎の中に入る。こうして、無機物から有機物ができる準備が整い、アミノ酸や糖類(ヌクレオチドの構成要素)が合成されていった。そして十分に濃度が高まってきた頃、さらに複雑な高分子生体有機物(タンパク質や核酸)が合成され、海底の高温高圧の中で金属イオンの触媒作用も加わり、これらの分子が反応を起こしやすい環境の中で生命が誕生した、というのが有力な説となっている。
生命というのは、外部から何らかの物質を取り入れ、エネルギーを取り出し、新たな物質をつくり出したり運動したりする(代謝)。また、自己と同じものを再生する(生殖)。これらの条件を満たしたものをいう。
最初の生命は単細胞で、原核生物と分類されている。このドラマが三十八億年前に起こった。これから延々と生物の進化が続き、二十七億年前に光合成をするシアノバクテリア(ラン藻)が出現する。この時期は、地球に地磁気が強まり、放射線が地球にほとんど届かなくなった時期でもあり、浅海に進出し活発に光合成をするシアノバクテリアが栄え始めたのである。二酸化炭素を吸収し水を分解して酸素を放出し、現在も生き続げている。
その後、DNAが詰まった核が膜で囲まれている真核生物が原核生物から進化し、この真核生物が原核生物のミトコンドリアを取り込み共生する。またその後、植物になる真核生物は葉緑体と共生し、順次多細胞生物へと進化し、有性生殖もこの頃から始まる(八億年ほど前)。
動物界は、真核生物から原生動物の襟鞭毛虫類から発生したと考えられている。最初に上陸したのは植物のコケ・シダ類で、およそ五億年前である。続いて節足生物、両生類の上陸と続く。上陸までに三十三億年の時間が必要であった。環境が大きな因子であったし、これまでに何回も絶滅の危機もあった。上陸してからも進化を続け、絶滅の危機に何回も遭遇して三十八億年の命を繋いで現在がある。以後の話は紙面の都合上割愛する。
私がここで言いたいのは、現在の生物の祖先は、すべて共通の祖先(細胞)から誕生したと思われているということである。その一つの、しかし非常に重要な理由は、「DNAからRNAを通って蛋白質をつくる時の基本的メカニズム(具体的にいえば、核酸のどの塩基配列がどの蛋白質のアミノ酸に対応するかということ)が、非常に原始的な生命から人間のような高等生物までに共通だからだ」と説明している。このことは遺伝子の中に共通の遺伝子もあり、私が寒蘭に感動を覚えても不思議ではないと考えられるということである。
人のゲノム解析が進んでいる。三十億の塩基配列は昨年読み解かれた。この塩基配列の中で、遺伝子は三万数千のようである。そしてこれは、全体の塩基配列の五%にしか過ぎない。遺伝子は蛋白質を作る設計図であるから、この蛋白質の機能の解明、残り九十五%の塩基配列の意味が今後の研究を待たなければならないのであるが、次項で述べる時空だとか、心とか、精神性などの解明が待たれる。
時空とビッグバン
宇宙の始まりはアインシュタインの特殊相対論、一般相対論、ハッブルの宇宙膨張で大きく進歩した。これらの理論から、ビッグバンが宇宙の始まりと解明された。百三十五億年前から百四十億年前ということである。宇宙膨張から逆算、収縮した一点が宇宙の始まりで、これは私にはなかなか理解できない状況だ。収縮すると、当初のビッグバンの時点は、真空の中で超高密・超高温(何千兆度)という状態。勿論分子も原子も原子核もその状態ではなく、クォーク、素粒子、ニユートリノといった粒子の集まりだったようである。これが一挙に膨張をはじめる。爆発と同じようだが膨張としている。その瞬間から時間と空間ができた。アインシュタインの相対性理論では、この時間と空間は切り離せないということだ。
ここで私はハッとした。我々生物はすべて体内時計を持っている。体内空間ということを聞いたことがなかったからである。空間を認識する遺伝子も我々にはあるのだということ。アインシュタインはこう書いている。「物理的対象は空間の内にあるのではなく、これらの対象は空間的に広がっているのである。こうして"空虚な空間"という概念はその意味を失う。」
これをもう少し解りやすくすると、空間の中に物質があるのではない、物質の詰まりぐあいが空間なのである。その空間は空間として単独にはない、空間は時間に連続し、重力の性質をつくっている。重力の分布こそが空間であって時間なのである。
この理論は一般相対論の一部だが、一般相対論を簡単に言えば、「万有引力が働く理由」を説明した理論で、すべての物体の間には力が働いているという万有引力の法則を提唱しためは十七世紀末のニュートンだが、なぜ離れている物体の間に力が働くのか、その理由は疑問のままだった。それを、物体の周囲の時空がゆがみ、そのゆがみが相手の物体にまで伝わることで万有引力が生じる、と説明したのが一般相対論だ。これから時空は切り離しえないことを説明している。
話を戻す。ビッグバンから三分後、中性子は陽子と結合し、重水素とかヘリウム四の原子核を作り出した。つまり宇宙空間には、(水素の原子核である)陽子、ヘリウムの原子核そして電子、ニュートリノ、電磁波が飛び回っていた。三十八万年後、温度が三千度(宇宙温度)まで下がった頃になると、電子が陽子やヘリウム原子核に結合、原子が作り出せる状態になった。
我々の体をつくっている様々な重い元素ができるのは、数億年を要している。これから天体ができる基となるタークマター(質量は通常物質の五倍程度の粒子)が銀河形成の一役を担っている。タークマターの分布は、宇宙初期のかなり早い時期に濃淡がかなりはっきりし、そして夕ークマターの濃い部分に通常の物質が重力により引き付げられることによって、通常物質の濃い部分ができる。そしてその中の各部分でさらに物質が凝縮し、宇宙最初の星が誕生した。ヒソクバンから五億年ほとのことだ。このようにして星の形成と爆発の繰り返し、星内部での元素合成なとがなされ、ピックハンからおよそ九十五億年後、太陽系ができた。
地球にはいろんな元素が揃っている。揃い過きだという説もあり、そのために]回で出来たのではなく、二~三代目ではないかとも言われている説もある。超スピートではしょってきたが、中性子の質量がもう少し重かったら、現在の我々はなかったとか、太陽の質量が十倍くらい重かったら早く燃え尽きていた、とかいろんな軌跡が重なっている。宇宙形成のシナリオを書くつもりはない。興味ある方はいろんな本が出ているのでこ]読のほとを。刻々と新しい知見が発表されている。
ここでは時空の話に戻す。私はアインシュタインの時空から、勿論アインシュタインの理論は宇宙観である。しかし、地球も宇宙の一部だから宇宙と一体であるべきだ。我々も宇宙の一部なのだ。宇宙と一体だと思っている。我々は空間の中に物質があると思っていないだろうか。物質の詰まりぐあいが空間だとしたら、我々の遺伝子にも、そのように書き込まれているはずだし、今後も詰まりぐあいの空間が遺伝子に書き込まれていくのではないだろうか。日本人気質もこのようなところから成り立っているのではないかと思う。
狭い日本、現在の森林の占める割合は六十七%だそうだが、昔はもっと多かったはずだ。山間に家が点在し、田畑があり、神社仏閣があり、小川があり、川が流れ、海にそそぎ、深い森林があり岩山がある。
日本人が"間"とか"余白"の美を感じる心が、詰まりぐあいの空間にあるのではないだろうか。勿論中国からの文人画、書などの外国から入ってきた美術・文化もあるがこれらも日本入が消化して日本の美術文化となっているわけで、日本入の時空になっている。
我々は現在、それらを根底から破壊していこうとしているような気がする。コンクリートで囲まれた都市空間がすぐれている文化的生活空間だと考えている入が多いのではないだろうか。;」れからの遺伝子への書き込みはどのように変えられ、その影響がどのように現れてくるのか、もう現れて来ているのかも知れない。
私が寒蘭から受けた感動は、寒蘭の時空にあったのかも知れないというのが今回のもう一つの感じたことなのである。普通の一般の青花だった。特にどこかに特徴があったわけでもない。文入作りもこの時空に当てはまるし、鉛直(重力で地球中心に向かう直線)線上の花軸の方向性、余白の存在、花の表現、すべて今回の知見に一致していると考えられる。
心と感動
心と心のふれあいが感動を起こす。これが三点目である。心については現在ゲノム解析により蛋白質の解明がすすめられている。すべての解明が進めば、あるいは解るかも知れない。
日本入の自然観を考える上で基本的となる事実は、身体語と植物の各部分の名称が見事に一致することである。目=め=芽、鼻=はな=花、歯=は=葉、身=み=実、また「み」の繰り返し形の「みみ」=耳などである。それぞれ漢字は違うが、原初の日本語においては、それは同じ「もの」である。もともと日本人の持っていた植物と入間の同質性の感覚を持って、「古今集」、「万葉集」など抽象的な「心」や「詩」に植物の諸部分、あるいは生育、生成のあり方の名称をイメージして付与したものなのである。その後、宋、元の山水観を取り入れた日本の芸術家(代表として
夢窓疎石、世阿弥)は、原初の自然観、もののあはれの自然観をそれに融合させていった。
現代科学においても、動物の思考をつかさどる細胞も、植物の思考をつかさどる細胞も、進化の仕方が少し違っただけで、どちらも同じ細胞から出発し、その原点の目的は「生きる方法を考える」というものであろう。だから私は植物にも思考(心)があると思うのだが、入間のものとは進化の仕方が異なっているから、入間を基準に比べたり考えたりしても結論が出るものではないと思っている。
外国の文献でも、植物には「記憶」が備わっていること、植物の細胞と、情報伝達器としての人間の神経組織には特別なつながりがあるに違いないこと、そして性質のまったく異なった生きた細胞が互いに「理解」し合えるように思われることが発表された。(中略)結局、植物の感受性、すなわち植物が示す「知性」「記憶」は、植物の要求を察して育てる術を知っている真に植物を愛する人々にとっては何も目新しいことではない。(植物の魔術より)
このように、入と植物(寒蘭・あるいは他の生物)は、心と心を通わせ感動を得ることは、不自然なことではない。門外漢には解らないだけかも知れない。
文人作りのすすめ
これまではしょって書いてきたので、舌足らずな点は感じた入が補い、深めてもらいたい。私の中では、一応の決着をつげたと思って、これからはゆっくりと蘭と暮らしたい。蘭を金儲けにしようとする人には無用の話かもしれない。
最後に、私の寒蘭文入作りを述べておきたい。"ほったらかし"という話も聞こえてくるが、気にはならない。植え替えて棚に置けば、寒蘭にとっては鉢の中が大地である。花が咲くまで動かさない。よく観察して、水、肥料など生育に必要なものは最小限与え、後は光のとりかた、環境を変えるだけである。
具体的には、当地では十月からもっとも光を多量に上から入るように環境を変える。そうすると光の強いほうに花軸は上がり、下部で曲がっていても、放物線上に上がり、花軸は結局地球の中心と結ぶ鉛直線状に花開く事になる。これは寒蘭の木自体の健康状態も表す。このやり方で、なお光に向かって上がらないものは、健康状態がよくないと判断してほぼ間違いない。そして蘭花は匂い立つように自己表現をし、時空を表し、心通わせる花となる。
山水画(水墨画を含む)の基本となる四君子の書き方としても、蘭は曲線の美、竹は直線の美、梅と菊は曲線と直線の美としている。これらも文人たちが臼然を観察した結果からきたものであろう。直幹一本仕立ても否定はしない。これを例えて、格書、文人作りを行・草書としておこう。
蘭入口が減っている現在、いろんな要因があるが、女性の感性、感性の高い男性など人様々である。咲かせ方も一要因である。私は人に感動を与えうる花を咲かせ、見てもらう道一筋である。
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"日向白竜"という花
中西 昭彦
日向寒蘭の中に"日向白竜"という素心花がある。私を素心大好き入間にした犯入である。宮崎県尾鈴山系木城町産、昭和四十二年、荒武敦子氏の登録による銘花である。
正三角形咲きの素心であるが、花弁が透き通るような淡い緑色をしていて中~大輪咲きとなる。株立となって木が大きくなれば大輪のすばらしい花をつげてくれる。葉は緑が濃く、溝が深い立葉である。淡い緑の花とのバランスが何ともいえず、薄暗い場所で咲かせると、まるでそこに妖精が佇んでいるような錯覚を覚える。私が"日向白竜"を愛してやまない理由がそこにある。
入手したのが昭和五十二年だから二十六年になる。当時は横綱級の素心花として一世を風摩していた賑わいのある花だった。三分の一程先がカットされたバック一本を三十五万円でやっとの思い出入手したが、翌年新子に押し子が出てすぐ元が取れた。それから何度か株分をして、その度に小遣を稼いでくれた孝行息子である。
最初の頃は、バック木の入手であるので自分の株に花が咲くには時間が必要であった。そこで展示会に出かけては"日向白竜"を見に行った。
当時は栗原氏が毎年のようにすばらしい花を出しておられた。ある年の県展(地方展の優勝花を集めて宮崎県展が開かれていた)で大株立の"日向白竜"が出展され、確か、内閣総理大臣賞に入賞していた。
見学の入々の話で、"あれはベンツ一台より高いよ"とか"いくら金を積んでも売る気はないそうだ"といった声が飛んでいたのを今でも覚えている。それは一本当りの木も大きく、大株立に天を突くが如く花軸を上げ十数輪の花をつけていた。
"日向白竜"もかくあるものか!と、その大迫力に圧倒されたものだった。
それが現在ではどうかと思うに、関西でも膝元の九州でもすっかり影をひそめてしまった。その名を聞くことがほとんどなくなった。関西で栽培している入があるのだろうか?
これ程の花が何処なのか? たぶんあまりにも多くの弱点をもっているからではないかと思う。
1、育てにくい。特に小苗はなかなか大きくならない。
但し、木が中以上ならそれ程むずかしくはない。少し肥料に弱い。
2、葉先が痛み易い。二年目ぐらいで黒くなってくる。
3、立葉であるため薮咲きになる。但し、窒素を多目に与えると中立葉ぐらいになって薮咲はかなり解消できる。
4、早咲きである。本花会に出展しにくい。但し花付は良い。
5、多花性であり、花間が短かく、つまって咲いているようになり易い。花軸が伸びる時、水を多目に与えることと、置場を暗くして上方より光をとるようにすると気にならない程度にはなる。
以上のような弱点は持っているが、透き通るような花弁を持っている花は他に見たことがなく、これのみでも充分その価値がある。
○"日向白龍"か"日向白竜"かという疑問がある。漢和辞典によると、竜はもと龍の古字であり、俗字であったとされている。竜のつく言葉は"画竜点晴" "竜宮" "竜神" "臥竜"等沢山あるが、龍の字が漢字で使用されることはない。文字としては使用されなくなったとは言え、名称となると別である。
なぜこだわるのか、というと私の手元に二つの資料がある。一つは、昭和四十七年四月発行の宮崎県日向寒蘭登録委員会による日向寒蘭銘鑑抄ー日向日龍と表示。と昭和五十九年八月発行の日向寒蘭宮崎県連合会による日向寒蘭登録品の手びきー[口向白竜と表示。この二つの資料が異っているためである。登録者である荒武敦子氏はすでに亡く、宮崎の古豪に尋ねても登録時のことは今一つはっきりしない。
個入的には"龍"の字が好きなのだが、文字として使用されることが少ないこと、連合会で登録品の整理をされた時、充分検討された上で"竜"の字を使用され、その後"竜"の字で通されていることから"日向白竜"ということだと思う。
○産地は宮崎県の木城町だが、すでに道路工事で坪は消滅しているそうである。残念なことである。
坪取りや近くからいくつかの株が採取されているが、葉が細葉で花も小型のものがある。白宝として別抜されているそうだが、それなりにかわらいしい妖精を思わせるものである。
宮崎県田野町の山取を得意とされている栽培家の棚で1度だけ見たことがある。株分けはしてもらえなかった。
人々から忘れ去られようとしているかの感のある"日向白竜"である。しかし、その透き通るような花弁をもったこの妖精は、私の棚で今年も大きな新芽を出して元気に育ってくれている。原稿を書いている今(八月十九日)すでに花芽も土の中から覗いてきた。
寒蘭界の活性化のためには、新しい花が次々に登場してくることが必要だと思う。しかし他方では古い銘花を最高の形で咲かせることも大切だと思う。
これからも"日向白竜"のもつ弱点を解消しつつ、しばし言葉を失って見とれるぐらいの最高の妖精が我が棚を訪れてくれることを願ってがんばってゆきたいと思う。
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