はじめに
日本春蘭は北海道の一部を除き日本全域に自生しており、寒蘭より作りやすい蘭である。
私が春蘭を作りはじめたのは昭和五十年ころからである。当時、日本春蘭は関東で人気があったが、関西では日本春蘭より中国春蘭を作っている愛好者が多かった。それは気候の違いで、関西地方では綺麗な花が咲かないとも言われていた。
私は中国春蘭の香りが大好きで作りはじめたが、偶然、「紅陽」が色よく咲いたことで、日本春蘭の発色に興味をもつようになった。
偶然良い花が咲いたのでは嬉しくない。安定した花を咲かせたいと思ったのである。
花の発色や果実の甘味は、固体に含有する色素や糖度にあることは知っていたが、その基本を学んだことはなかった。
まずは植物の文献から花色の基本となる色素ついて学んだ。花色や発色の違いは、蘭の固体に含有する色素の性質によること。色素の分解や糖の消化は、強い採光や高温、極度の低温、などが原因すること。特に真夏の猛暑、熱帯夜が長引けば、よい発色が期待できないことを理解したのである。
その知識を基に、色花の実践に努めた。最初にはじめたことは、年間を通して蘭作りをノートに記録することにした。
次に、発色を知る方法として、品種個々に新芽の色や葉性。花芽においては、開花前の蕾の色、咲き始めたときの色、咲ききった後の変化。など詳細に観察し記録した。その長年の積み重ねから、概ね品種の特長が見分けられるようになった。
一 色花の区分と見分け方
蕾の色や咲き方の過程を観て、一般に言う、天冴え種、後冴え種。その中間種を加え、三区分した。
この中間種とは、私の個人的見解である。
この見分け方は、遮光管理が適正に行われてあることが基本で、無管理の状態では判断できない。
1 天冴え種=宝玉・天心・東天紅・東源 など
開花前、包皮中の蕾の色を観て、濁りがなく花色が鮮明に見えること。
遮光管理にもよるが、咲き始めの発色は綺麗だが、花が老化すると退色する品種がある。
2 後冴え種=極紅・多摩ノ光・篝火 など。
開花前、包皮中の蕾の色を観て、濁りがあり天冴え種ほど花色が鮮明でない。開花が進むと弁元から弁先に向け、次第に色が濃く増す。花が老化すると、一層、色濃く冴え退色しない。弁先や弁元に緑が残るのは、後冴え種の特徴と理解している。
3 中間種
後冴え種と天冴え種の中間にある品種である。
色素の性質から、その中間にある品種にも、後冴えに近い品種、天冴えに近い品種がある。後冴えに近い品種は安定した発色をする。
⑴ 天冴えに近い品種
赤紅種= 舞妓・紅貴・紅明・紅梅仙 など。
⑵ 後冴えに近い品種
①赤紅種= 女雛・紅陽・君子・清香 など。
「女雛」「君子」は初心者が作っても綺麗に咲く。
「清香」は交配種(女雛×清姫)だが、
女雛より大輪に咲き、花形もよい。
②黄花種= 琥珀殿・黄麗殿・松の光・黄将 など。
赤花同様、弁先に緑を残す特徴があり、日毎に色濃く増す。
③朱金種= 玉英・光琳・白浜小町 など。
開花後は、一層色が増す特徴がある。
二 年間の管理について(兵庫県南西部の気象を基準)
四月上旬=植替え・施肥・成木株の移動
1 植替えは、春蘭展が終わった後、株の状態を見て行う。通常二年に一回。上土の交換は毎年、春と秋に全鉢行なっている。
⒉ 肥料は、自作の好気性発酵肥料を使っている。成木は熟成肥料を施し、小木は窒素分が高い若い肥料と、マグアンプKを施している。
肥料学によると、発酵肥料には、微生物が着生共存しており、肥料効果だけでなくその免疫効果で、病気に強い植物が育つと言われている。だが、微生物は陽光に弱いので施肥は土中に混入している。
その趣旨から、肥料は通気性のある麦袋を使用し、日照のない土間で保管している。
従って、ビニール等で密封された肥料は、微生物が死滅しており、免疫効果はないと理解している。
3 成木株の移動は、防虫網を備えた風通しのよい、蘭舎外軒下棚へ移している。陽光を採り健康な蘭を作ること。蒸れの予防、真夏の猛暑や熱帯夜の影響を少しでも避けたいからである。
蘭は、早く朝日が当たり、早く日陰になる位置に、天冴え種→中間種→後冴え種→複色花→縞花・青、の順に置き、日照にも細かく気配りしている。
五月下旬~六月下旬=殺菌剤・殺虫剤散布
殺菌剤は主にトップジンMを使用、連用を避ける。
治療薬と予防薬の違いがあること。殺菌剤は肥料中の微生物を死滅さるので散布に留意している。
殺虫剤は主にスプラサイドを使っていたが、発売禁止になり、今年から「エルサン」を試行している。
七月上旬~十月中旬迄=花芽の確認記録
色花は、十五日毎に上土を除き、花芽の有無、大きさを記録する。記録は記号で簡略に記す。
この観察記録は、花芽が土を切る日が予測できるので見落すことがなく、むしろ手数が省ける。
七月中旬=花芽促進剤散布=「ホスポンーF」。
同薬剤は第一燐酸加里である。新芽の成長に影響するので早期に散布はしない。
「舞妓」の花芽は、六月上旬に土を切ることがあるが、七月上旬迄に出た色花は全て除いている。
早く出た花芽は熱帯夜の影響が大であり、遅く出た花芽ほどその影響が少なく、良花が期待できる。
七月中旬=土盛り・キャップ被い
1 土盛りは、観察記録から花芽が上土を切る前に施す。花芽を予測して早めの土盛りは、鉢中が蒸れ、新芽のズボ抜けを起こす原因となる。
用土は、保湿性の少ない薩摩土の小粒を用いている。土盛りの用具は、園芸用の網で作る。
2 遮光キャップは、土盛り中の花芽を観て施す。
材料は厚手のアルミホイルで作る。 (写真№1)
九月下旬=殺菌剤、殺虫剤散布
九月下旬=植替え・施肥
1 植替えの有無は、花芽確認時に根の状態を見て行なう。上土の交換は全鉢行っている。
2 肥料は色花に影響すると言われているが、熟成肥料は化学肥料と異なり、発色に影響はない。
十一月下旬=戸外作場の成木株を休眠させるため、遮光のある半日陰の蘭舎へ戻す。
十二月中旬~下旬=昼間の外気が10℃以下になった頃、後冴え赤花種のキャップを除く。
早朝、二時間程、ダイオネット越しに外気の弱光を採る。低温時の弱光は、糖を蓄積し、発色を高めると理解している。
一月上旬~一月中旬=後冴えに近い赤紅種、紫花種のキャップを除き、早朝の弱光を採る。
一月中旬~下旬=天冴え赤紅種のキャップを除き、
早朝の弱光を採る。
一月下旬~二月上旬=後冴えに近い黄花種、後冴えに近い朱金種のキャップを除き、早朝の弱光を採る。
その他の黄花・朱金種は、開花前にキャップを除く。
三 加温による開花要領
展示会期に合わせ咲かすには、冬期の蘭舎を開放し、蘭を完全休眠させておくこと。無加温で上限8℃迄が理想である。
休眠不足の蘭は、加温しても動きが鈍く、予定日通り 開花しない。10℃以上の日が続くと、品種によるが自然開花するので注意すること。
加温は、温度設備のある蘭舎が便利である。床は保湿のある土間がよい。
少数鉢の場合は市販のワーディアンケースがよい。室内の採光は、太陽光線に近いと言われている育成灯、
「バイタライト・ねじれ形」を使っている。
1 3月10日が展示会とした場合、加温事例
展示会期日の一週間前に開花させるよう設定する。
この時期では経験から、開花するまでの日数を、二十五日間と設定する。
⑴ 2月13~20日=加温開始(八日間)
昼間10℃、夜間7℃に設定。開花の兆しを促す。
⑵ 2月21 ~3月2日=温度を上げる。(十日間)
昼間15℃→23℃ 夜間7℃→10℃迄に設定。
十日間をかけ、徐々に温度を上げる。昼夜の温度 差10℃が理想である。
但し、紫花に関しては上限温度16~17℃迄とする。日本産の紫花は高温で脱色する品種があり、留意のこと。 (詳細は後記 四―4)
⑶ 3月3日開花=展示会までの期間(七日間)
咲いた花から順次、屋内廊下に移す。直接外気に出さず、開花後一週間ほどかけ常温に戻す。
⑷ 3月10日=展示会
2 加温時の採光について
採光時間は、三月中旬の日照時間に合わせ、弱光で、午前6時から午後7時迄とする。
採光加減は育成灯を使用し、概ね、早朝から正午迄としている。
⑴ やや強い採光=赤花後冴え種・覆輪・複色花・青
⑵ やや弱い採光=赤紅天冴え種・紫色種
黄花、朱金の後冴えに近い品種。
⑶ 弱い採光 =一般の黄花や朱金種など。
3 産地による開花時期の違いについて
九州産の品種は常温で四月中旬に咲く。また、秋田県産など寒い地方の蘭は、品種によるが常温で三月下旬に咲く。中国産は二月下旬に咲く。
即ち、寒い地方産の蘭ほど早期に咲き、暖かい地方の蘭は遅く咲く。
従って、展示会に合うように咲かせるには、性質の違いを理解し、加温日数の調整が必要である。
四 雑感
花作りは、後冴えに近い中間種が無難だが、それでは楽しみが少ないと思っている。
深く楽しむには、やはり後冴え種である。本来の花色が極められていない品種がある。その花色を追い求めるのが興味深く楽しいものである。その経験から
1 「極紅」のこと
極紅は千葉県産の赤花である。最近の趣味者に忘れがちな花であるが、典型的な後冴え種である。
後冴え特有の濁りが乗ることが多い。しかし、よく咲けばこの花に優る花色はないと思っている。
因みに、「極紅」の特長がよく現われた写真を提示。
平成七年、大阪国際蘭展出展 (写真№2)
東洋蘭個別部門・最優秀賞を受賞する。
2 「若桜」のこと
若桜は千葉県産の赤花である。作りよい蘭であるが、色出しが安定せず、多少難しい品種である。
作りはじめの頃、本来の花色を探り何度か咲かせたが、緑と桃色が混じる複色花に、弁先が緑に弁元に向け真っ赤に咲くなど、様々であった。
花の良し悪しは、その年の気象や遮光加減で微妙に変化する品種である。
本咲きは、濁りがなく真っ赤に咲く。しかも平肩で大輪、葉上に抜け雄大である。
平成八年、神戸国際蘭展出展 (写真№3)
東洋蘭個別部門・最優秀賞を受賞する。
3 「篝火」のこと
篝火は千葉県産の赤花である。後冴え種であるが木作に難があり、花付きもよくない蘭である。
昔のこと、蘭友が篝火の花を持って訪れ、花色を聞かれたことがあった。花は赤く冴え実に綺麗だった。篝火は度々咲かせたことがあるので、「よく咲いているが、篝火の花色は命名文字のとおり、たいまつ松明の色だと私は理解している。その炎の色から、弁元が火のように赤く、弁先に向け炎が燃え上がるように赤黒く濁る発色が、本来の花色だと思う。遮光は早めに解いた方がよい。」と話した。
4 「伊予茜」の失敗話
伊予茜は愛媛県産の紫花である。
平成九年二月のこと、ワーディアンケースで加温中、夜中に覗いたところ、紅色でもなく紫色でもない、今まで目にしたことがない冴えた発色に驚き、思わず妻を起こしたほど、冴えのある色であった。
この時の温度は、昼間18℃夜間10℃と記憶している。
開花中のことで、翌朝、通常どおり温度を20℃に上げたのである。その正午のこと、昨夜の発色は消え、濁りが乗り薄紫色に変化していたのであった。この時、紫花の上限温度は16 ~17℃迄と実感した。
その経験から、温度に過敏な品種は、加温時だけではなく、夏期は涼しい環境で作り、色素や糖の保持に努めるべきと認識、高山で蘭作りができたらと贅沢な発想をしたことだった。
5 「白浜小町」の欲目
白浜小町は紀州産の朱金花である。命名登録されて間のない頃、展示会場で初めて白浜小町の花を見た。中葉の締まった葉性で、花形や発色も良い。朱金花と言われているが、赤紅に咲くと直感したのである。当時は、まだ品数が少なく高価であったが無理して、二度も棚受けした。
朱金種や後冴え種の要領で何度も試したが、紅色の強い朱金色に咲くが、赤紅色に咲くことはなかった。赤紅花に咲けば、大出世と期待したが叶えることはなかった。欲目の一例である。
なお、朱金種の開花方法は、加温直前に遮光を解くが、赤紅色の強い朱金種は加温する十五日ほど前に遮光を解き、早朝に弱光を採ると、一層色濃く咲き、その差は顕著である。
6 黄花種の後冴えについて
通常、黄花の色分けはないが、長年の経験から、発色の違いを観て区分した。
一般の開花方法は、朱金種と同様、加温直前にキャップを除くのであるが、この種の開花方法は加温する十五日ほど前に遮光を除き、弱光を採ることにしている。朱金種後冴え様の見解と同じである。
7 蒸れの黄花のこと
昔、気象条件のよい東北地方で咲かせた黄花が出回ったことがある。経験者なら発色を見れば直ぐ分かることだが、翌年咲いた花は極薄い緑花であった。
即ち、蒸れの黄花である。良くない事例だが、買った趣味者には高い授業料となったと思う。
8 白花について
白花の咲かせ方は、蕾から花が咲くまで、蕾に合ったキャップに取替え遮光すること。開化後も薄暗い部屋に置けばよい。この開花方法は株を痛めやすいこと。日本産には、白花の色素をもった品種は極少ないと思っている。遮光技術で白く咲くが、これは単なる蒸れ花に過ぎないと理解している。
9複色花・覆輪花・縞花などについて
この種の品種は、色彩が不鮮明な花を良く見る。基本的には遮光の必要はないが、例えば、坪取りが広い「桃山錦」の中には、赤味の強い花がある。この種の花は、赤花後冴え種と同じ遮光要領で咲かすと、鮮明な濃赤色に咲く。全ての品種に言えることだが、過去の常識に囚われず、発色過程をよく観察してみると、新しい発見がある。
10 変わり花(奇花種)について
加温して咲かすと、特徴のない並花に咲くことが多くある。本咲きさせるには、常温で咲かせることが無難である。その例として、本年、私が出展した、変わり花部門入賞花「緑翁」は、失敗花である。
本咲きの写真を掲示した。 (写真№4)
11 花軸のよく伸びる品種について
「紀ノ白帆」や「露雪」など、紀州産の品種に多い。
急激な加温は、モヤシ様に徒長することがよくある。加温する場合は、湿度を抑え徐々に加温すること。
出展するには、少なくとも展示会日の一週間前に咲かせ、花軸が安定してから出品が無難である。
12 冬期の管理について
近年、異常気象の影響で、当地でも氷点下2~3℃になることが、年に何度かある。加温設備のある蘭舎なら安心だが、屋外の蘭作りは天気予報をよくみて防寒対策を怠らないこと。上土が凝っても自然解凍が無難である。湯をかけるのは厳禁、また直ぐ潅水すると、氷点下の日が長引けば凍結に追い討ちをかけることになる。被害に合うと三月上旬には、花芽が徐々に枯れ落ち、下旬には葉も枯れる。近年、冷害で蘭を枯らしたと、よく聞くので留意のこと。
13 肥料について
私が蘭に施している肥料は、自作の好気性発酵肥料である。肥料を作りはじめたのは、蘭をはじめた頃とほぼ同じで、もう四十数年になる。
専門書から基本を学び、嫌気性肥料の作り方や、いろんな肥料を作り、草木にも試した結果、東洋蘭には、好気性発酵肥料が最も適応していると実感した。
好気性発酵肥料の作り方は、過程の一部を除き、酒造りの発酵過程と同じで寒の入りに作る。
材料配合時の水加減に始まり、こまめに温度管理や撹拌。その年の気象で発酵に変化も起こる。それらを把握して発酵中の臭いから肥料のでき具合が判る。
失敗談を聞くが、数年の経験では、発酵が完熟か腐敗の違いが分かるものではない。腐敗した肥料を施こすと、一年草の花は影響が少ないが、宿根草の蘭には根傷みが顕著である。安心できる肥料が、そう安易に作れるものでないことを添えたい。
14 新種の棚入について
花を見ないで棚入れすることは、まずないと思うが、最初は遮光せず自然に咲かせること。色花の性質を見極めてから、花に合った開花管理をしている。
おわりに
地球温暖化がはじまってから、もう二十余年になる。その影響を受けて魚類や動植物の生態に異変が起こっている今日である。
街中の紅葉は見られたものでないが、高山の紅葉はよく冴え美しい。高山は真夏の暑さや熱帯夜の影響が少なく、昼夜間の温度差があり湿度もある。それが色素や糖度を保持されているからと理解している。
その環境において、毎年、安定して良い花を咲かせることは難しいが、基礎知識を心得ていればそれなりに良い花が咲いてくれる。
一昨年、関西寒蘭会の会員で結成されてある、春蘭の会「幽香会」と本会が合併したので、春蘭に馴染利みがない方々へと思い寄稿した。
この記事は、私が長年に亘る春蘭作りの観察記録を総括したもので、学説と異なる内容も多々あるが、専門用語を使わず初心者に分かりやすく記述したのである。
私にとって蘭の師と言うべき遠矢耕三氏が亡くなった。優れた鑑識眼をお持ちの方で、いくつもの名品を世に送り出した方だった。韓国春蘭の匠(娘子)に緑王、松露、春蘭の大青海、百舌などのデビューに関わっている。春蘭だけではなく寒蘭やエビネにも深い造詣があり、寒蘭では特に白西平産に力を入れていて麗翔、泰翔、豊太閤など非常に高価な品種を育てていた。さらに自分の蘭を親にして交配を行っており、ラベルを見て親の豪華さに驚いたものである。
「なべちゃん、遠矢さんちへ行かないか」と小谷氏から誘われたのは平成二十一年の秋だった。鉢数はそれほど多くは無いが凄い物が揃っているという。二つ返事で承諾したものの、福岡は遠い。休憩を挟みながら五時間かけて高速道路を走った。
遠矢氏宅に付いたのは夕方だったが、一秒でも早く蘭を見たい私は応接間に通される前に棚を見せてもらった。そして蘭の質の高さに驚いた。最初に目に飛び込んできたのは韓国春蘭の故宮である。紺覆の深さと濃さは韓国春蘭随一で、葉幅を引いた見事な美術株だった。それから松露。葉が丸止めで中チャボを思わせる葉姿に重厚な中透けが入る。遠矢氏の棚でナンバーワンの品種は匠である。葉はずんぐりとした中立ち葉で葉幅もあり、極黄の中透け縞の鮮やかさは圧倒的だった。とにかく目に付く品種全てが珍しく、また光り輝いていた。
交配種にも力を入れていて、女雛×歌麿の「武尊」が棚にあったのには驚いた。「これからの春蘭」で大きく取り上げられている品種で、写真の木のバックを平野綏氏から譲ってもらったという。花物は青花が多く、寒蘭の様な大きさの福達磨、中国春蘭交配の翠鈴、鹿児島産の五位野チャボなどが目についた。変わり種として豆弁蘭ベタ舌の乾隆もあった。
私が最初に分けてもらったのは新芽の付いた故宮のバック木だった。さらに対馬産平肩素心の素光と形の良い黄花の泉黄梅を追加し合計は十四万。それまで購入した最も高いランは紀州産の雪光で一鉢五万円。十万以上も出すのは勇気が必要だったが、満足できる買い物だった。これをきっかけに私は高級品種を買いあさるようになっていく。
遠矢氏の棚に何度も通ううちに柄物を見る目が鍛えられた。まず葉姿の美しさ、柄の色、柄の入り方、それから葉肉だ。無銘の縞を見てそれがどの程度のグレードなのかおおよそ見当がつくようになり、それまで本に載っている韓国春蘭の柄物を見てどれもこれも素晴らしいと思っていたのに、今では合格点が上がってしまい欲しいと思える品種は少数となってしまった。
遠矢氏から分けてもらったランは今でも私の棚の中核を占めている。匠を筆頭に親王、故宮、松露も入手し、遠矢氏の柄物は一通り揃うようになっていた。種子島へ転勤の際は遠矢氏に会いに行き、私の匠や親王を見てもらい作がいいと褒めてくれた。その後は博多スターレーンの寒蘭全国展に行った際などに訪ねていたのだが、昨年は入院中とのことで会いに行けなかった。訃報を聞いたのは今年の一月である。肝硬変で先は長くないと聞いていたがやはりショックであった。遠矢氏の蘭は業者の競りに出され、結構な金額になったそうだ。できればもう一度お会いしたかったのだがそれは叶わなくなってしまった。心からのご冥福をお祈りいたします。
何時の間にやら好みが変わったのか、この頃では、“大雄”“白妙”“室戸錦”“日向の誉”“豊雪”等古典的な花ばかりに目が向いて、どれも鉢を複数に増やして(…夫々別のルートから入手して…)花を暖かせると言う楽しみ方に変わってきました。しかし、残念な事にどの花もベストに咲かせることが出来ず、また虫にやられたりして、展示会に出展することができず、残念な思いをしています。
蘭のことはともかく、今年も“しそうの逸話”から昔話を2つ紹介します。
段の観音堂の絵馬・・・山崎町
山崎町の段と言う所に観音堂があります。この観音堂は江戸時代の後期、山崎藩の城主、本多家の祈祷所でした。この観音堂の正面右側に大きな絵馬がかかっているのですが、この絵馬と山崎藩にまつわる伝説があります。
昔、ある秋のこと。山崎藩城下の村々、特に段、鶴木地域に夜な夜な田畑を荒らし回る怪獣が出没。その被害は大変なものだった。そこで村人達が庄屋の家に集まって相談した。そして怪獣の正体を突き止めるために夜の張り番をすることにした。
とっぷり夜が更けた頃、激しい蹄の音。現れたのは怪獣ではなく一頭の裸馬だった。裸馬は、当たりかまわず田畑を駆け回り、取り入れ間近い稲や大豆を食い荒らし始めた。村人達は鍬や竹の棒をもって追い回したが、足の速い裸馬には歯がたたず、追えば逃げ、近寄れば蹴散らされ、とても手に負えない。東の空が白みかける頃、裸馬は悠々と姿をけした。
ある日、一人の若者が裸馬の住処を突き止めるため尾行したところ、裸馬は、段の観音堂の絵馬の中に入り込んでいった。この話に村人達はびっくり。観音様のお怒りかもしれぬと、沢山の食物を供え裸馬が出ないよう祈願したが、効き日が無かった。
思案に暮れた挙句、庄屋から山崎藩の馬術師範だった桑田四郎右衛門氏常に「荒馬を捕まえて下さい」と願い出た。氏常は、早速承知して、夜の更けるのを待った。まもなく村人から裸馬が現れたとのしらせ。氏常が現場に駆けつけて見ると、裸馬が荒れ狂っていた。
氏常は、裸馬を遠巻きにしている村人達の中を割り、恐れることなく裸馬の前に大手を広げて立ちふさがった。裸馬は竿立ちになっていなないた。その時、氏常の手が馬のたてがみに触れたとたん、ひらりと馬上に飛び乗った。氏常が馬上の人となると、馬は急におとなしくなり、その見事な鞭さばきで氏常の意のままに動き出した。
氏常は、早速裸馬を観音堂の絵馬の中に追い込み、絵の傍らに松ノ木を描き、それに手綱を結びつけた。さらに絵馬ににらみを利かせるため、馬が一番恐れるという龍の絵を観音堂の天井板いっぱいに描いた。それからは裸馬は一切でなくなった。
現在、伝説の絵馬は、ほとんど絵が消え原形はわからないが、龍の絵は残っており、「正徳五年末、桑田氏常画」のサインが見られます。
妙勝寺の夜泣き石‥‥山崎町
山崎町上寺、法光山 妙勝寺の山門をくぐり、本堂に向かって左側の庭をみると「夜泣霊碑」と刻み込まれた石碑がたっている。高さおよそ一・八メートル、幅三〇センチほどの細長いもの。横から眺めると、わずかな反りがあり、もと、石の橋として使われていた物だと推測できる。この石が江戸時代末期、山崎城下の人々を騒がせた「夜泣き石」だと言われています。
江戸時代も終わりに近い頃、赤穂藩士の娘が、ある山崎藩士の元へ行儀見習いにきていた。絶世の美人で、たちまち町の評判になり、「赤穂小町」と言われるようになった。この美しい娘に思いを寄せる若者達は多く、中には、しつ濃く言い寄る若者も居た。しかし、娘にはすでに赤穂に恋人がいたので、だれにも良い返事はしなかった。
あるおぼろ月の夜、この娘が、山崎城下を流れる小川に掛かっている石橋の上で殺された。城下は大騒ぎ。
だれが?なぜ殺したんだろう?など噂にうわさを呼んだ。なかに、しつ濃くいいよっていた山崎藩士の若者の仕業だろうと言う人もあったが、はっきりした事はわからずじまい。
娘の死顔は、余りにも可憐で美しかったので、世間の人びとは、その死をことのほか哀れんだ。殺人事件の有った日から、娘の怨念が、石橋に乗りうつったものか、夜になると石が「赤穂へいのう、赤穂へいのう」と悲しい声で泣き出した。町の人たちは気味悪がって、誰もこの石橋を通らなくなってしまった。やがて、誰言うとなく、この石橋を「夜泣石」というようになった。
城主は「縁起のよくない石橋」というので家来に命じて新しい石橋に架け替えさした。そうして、元の石橋は地元へ下げ渡した。町の人たちは殿様から下げ渡された石橋だったが「不浄の石橋を使って、たたりでもあっては大変だ」と、その取り扱いに困り果てた。思案の挙句石橋を近くのお寺に持ち込み、竹薮の墓場の中に置いた。しかし、「赤穂へいのう、赤穂へいのう」との夜泣きは止むことなく続いた。
当時の妙勝寺は、今の鹿沢にあったが、建物の傷みがひどく、この寺を潰して上寺のほうへ新しく建てなおすことになった。「寺が建つのなら石橋を石材として使ってもらったら、娘の崇りも無くなるだろう。」ということになり、新しい寺の敷地に「夜泣き石」を運んだ。そこで、時の山主、要妙院日解上人が、この「夜泣き石」を寺内の庭に安置し「夜泣霊碑」として、ねんごろに供養して菩提を弔った。
それ以来法華経の功徳を受け「赤穂へいのう、赤穂へいのう」の夜泣きが止んだと言う。
死んだらどこへ行く
前会長の渋谷さんと会誌の事で電話をしている時に、ポツンと「私らももう八十やで、何時まで居るやわからんから…。」と呟かれた。返事に窮してその場は無視したものの、生末(いくすえ)の不安と無常観は、齢を重ねると誰しもが思う本音である。
巷では「死んだら極楽浄土に行けるよう、精進を重ねる。」などと言うが、浄土三部経にその様に書いてあるのかどうか…。あの世から帰って来た人はいないので、唯々そう信じるしかない。だが一方で「信じるだけ」と言うのは心もとない。
そこで「信心までもが向こう持ち (自分が信仰心を持つ事さえ、仏さまが決められた事だ)」となる。尤もらしくもあるが、何やら胡散臭い。「信じる」と言う主体的な動機を支えているのは自己の価値観であり、「他力本願」と言うのなら「自己決定」を不問にするべきではない。「信じる」と決めたのは自分だが、その自分は信じるに足るのだろうかと…。
「自己決定を信じる」と言うなら「自力本願」と言うべきだし、「自己決定を信じない」と言うなら「信心」は成り立たない。つまるところ、自己の価値観を容認したままの「他力本願」は論理的に破綻している。
自分は確か…か?
「自力本願」が正しいなどと言うつもりはない。自己とその価値観に十全な信頼を置くのは如何か、と言っているのだ。
南宗禅、馬祖道一の法を継ぐ唐代の禅僧、百丈懐海(ひゃくじょう えかい )に「仏陀は如何」という寓話が有る。
「仏陀は如何(どのようであるか)?」と尋ねる者が有ったので、百丈は「おまえは誰だ?」と言った。旅人は「私です」と答えた。師は「『私』を知っているのか?」「はっきりと」。師は払子をあげて「見えるか?」「…はい。」百丈はそれ以上なにも言わなかった。
このように、同じ「私」だが、両者の「私」は別の世界に存在している。「自分は確か」という自分が誰なのか、本当に知っているのだろうか。
仏典では
古い記憶で曖昧だが、現存する最古の原始仏教経典「スッタニパータ」には「輪廻からの解脱」に付いては書かれていたと思うが、死後に付いては全く触れてなかったと思う。
「輪廻からの解脱」とは、古代インドで信仰されていた バラモン教(ヴェーダ=古代ヒンドゥー教)の輪廻転生説に対して、ブッダが「私は再びこの世に生まれることは無い」と発言する場面であり、ある意味ではヴェーダとの決別宣言でもある。(一般的な解釈とは異なる)
江戸期の僧、盤珪禅師(元和八年、現在の姫路市網干区に生まれる)は「不生不滅」と説いた。「一切の衆生は必ず滅するが、生まれなかった者は滅する事もない。自己の本性に仏が宿ることを知るべし。」と言うほどの意味だ。生者は必ず死滅する。生まれなかった者だけが死なないのだ。
身体より先に思考があったわけではなく、身体が思考しているのだから、身体が消滅すれば思考も消滅する。今ここで四の五の言っている事の全てが消滅する。信心があっても、西方浄土にゾンビとなって再生する分けではない。生者必滅、まさに無常である。では「生まれなかった者」とは何か、自分とどう関係しているのだろう。
オカルティズム
オカルトと言えば、降霊術やエクトプラズム(霊を視覚化させたりする事)と思われるかも知れないが、本来のオカルトとは「神秘的合一」によって神や絶対的な存在を自己の内に直接感じようとする「神秘主義」を意味しており、占星術、錬金術、魔術などによって、自然界の「隠された記号(謎)」の証明と実践を行った。その起源は、キリスト教によって弾圧された民族的な信仰が秘密結社へと変化したもので、中世の魔女狩りや「フリーメイソン(自由石工組合)」、「ダビンチコード」と言えば、ハタと思い付く方もあるだろう。
イギリスの小説家“コリン ウィルソン″によると。イギリスにもキリスト教が普及する前に、「月の女神」を信仰する宗教が有ったようだ。「月」が象徴するのは「女性、智慧」などで、太陽神の意味する「男性、論理」などと対をなしている。その後キリスト教の一派に取り込まれ、キリスト教神秘主義が生まれた。ここにも胡散臭さを感じ無くもない。
ウィキペディアによると、『神秘家というのは、いわゆる脱我(=エクスタシー)を体験している者である。その体験において、我々が普段“自己”と信じているものは、絶対者の前に吸収されつくして無になり、同時に絶対者は対象ではなくなり、それが真の自己の根拠になる。このような、“自己”の徹底的な死と復活と言える脱我的合一が神秘体験の宗教的な核心となっているのである。』とある。「神秘体験」と「心霊体験」は、言葉は似ているが全く別物である。
隠された記号
同様の神秘思想は東洋にも存在し、古くは密教や修験道、或いは道教、陰陽道、後には禅や能楽にも「隠された記号」が反映されている。それぞれに年代も地勢も異なり象徴する記号も異なるが、洋の東西を問わずそれらが暗示すものは、「隠された絶対的な智慧」である。
南宗禅に「不立文字(ふりゅうもんじ)」という言葉がある、禅定(ぜんじょう)を文字で表す事は出来ないと言う意味である。
ユダヤ教では神の名を「聖四文字YHVH」と表記している。子音だけの単語は発音できない。神の御名を唱えてはならないからだ。つまり「隠された記号」は文字や言葉に出来ないのだ。
文字や言葉に出来ないものを説明する事自体が、矛盾であり蛇足でしか無いが、敢えて愚行をするなら。絶対を意味するものに「仏」や「神」など、何らかの名を付ければ、「アレではないコレ」になる。つまり、アレとコレは相対し区別されるので絶対ではない。よって「隠された記号」は「名前が無いもの」の代名詞なのだ。
かくれんぼ
種田山頭火に「私の懐疑がけふも草の上」(昭十年)と言う句がある。やがて「てふてふひらひらいらかをこえた」(昭十一年)へと変わるのだが、ここでは「草の上の懐疑」がどの様なものか説明が無い。これは正岡子規などの言う写実的表現では無く、言語化できない「隠された記号」を別の言葉で暗喩したものだ。余談になるが、明治以降の国語教育は近代化を急ぐあまり、我が国の伝統的な文化を軽んじた嫌いがある。詩歌が写実的であらねばならぬ根拠は歴史的に無い。
答えが問うている
「答えが問うている 問が答えている」と言う言葉でインターネット検索をしたところ、面白そうな人物に行き当たった。高知県在住の方でトンボ池の写真と神秘主義的な短い詩が有った。そこで、「人生という出口のない迷路を彷徨っています。」と書き込むと、早速返信があって「人生の苦しみの中にあって、全ては過程という意味ですか。」とある。折り返し「確かに、人生の全ては過程ですが、苦しんでいる訳では有りません。むしろ楽しんでいます。」と答えた。
正しい答えを求めようとすると、この世はまるで迷路だが、抜け出そうとあえぐのは「出口がある」と信じているからだ。「この迷路に出口は無い」と分かれば、抜け出そうと苦悩しなくなる。つまり「死んでから行く場所は無い」と諦めることが「輪廻からの解脱」に繋がる道だ。「隠された記号」は諦めなければ見えない。
問うから分からない
「問う」のは分からないからで、「答える」のは分かったからだ。つまり、問と答えは一対になっている。「隠された記号とは何か」が問で、今、答えを見付けようとしている。問うのは分かるためであるが、「分かる」というのは「分かつ」という事だ。つまり、「四角は丸ではない」と区別しなければ四角が分からない。
ここで、前述の「隠された記号」を思い返したい。絶対的なものは何者とも相対しないはずである。という事は、問を発したトタンに答えを失う事になる。さて、どうしたものか。
「答えが問うている 問が答えている」とは、「自分自身が答えなのに問を発し続けている、実は問いそのものが答えである」という意味だ。問と答えが不可分の一体であるなら、それはそのまま受け入れるしかない。そのまま飲み込んで、四角い丸が腑に落ちるまで待てばよい。ただし、飲み込まない物が腑に落ちる事はない。
混沌ということ
「問わず答えず、そのままを受け入れる。」と、因果も区別できなくなる。原因が結果を生むのではなく、原因と結果は不可分の一体になる。つまり、ヴェーダが示す因果律が壊れる事になる。この様にして混沌が始まる。
三界の区別も消え去り、永遠と今が一体となる。三界が壊れたら業は消え去る。問と答えの区別がなくなり、問がそのまま答えになる。死生にも区別がなく、ただここに居る。無限遠の中心であり、今が永遠であるが、ここが何処で今が何時なのかは知らない。瞬時にすべてを理解できるが、一息置くとすべてを忘れる。
「意味が分からない」と言われそうだが、聞いたけで分かるようなら、それは混沌ではない。自分の中で、最も確かなものが破れなければ、混沌が見えることはない。
天網恢々
「死んだらどこへ行く」という話が、大変な事になってきた。しかし、良くしたもので混沌なんか知らなくてもよい。なぜなら、人は(この世は)元々救われているからだ。はっきり言うと、死んだ後に迷う人は誰もいない。何を信じようと、何をやろうと、悪行を重ねていても、元々、皆が救われているのだ。
だから知らなくても良いし、知ったところで何の意味もない。死んでから行く先は無いが、諸行によって落ちる地獄もない。悟りを開くのも、解脱を得るのも、結局、動機は我が為でしかなく、祈ったところで世が変わるわけでもない。
それでもなお祈り続けるとしたら、それは大悲の他ではなく、絶望的な彼方に向かって声の限り「大丈夫だよー」と叫び続けるしかない。なぜなら自分もまた、孤独の内に死を迎える人であるからだ。
完全なものに特異点は無い。相対するものが無いからだ。「絶対と言うなら完全と不完全も一体ではないのか。」と言われそうだが、絶対は相対を内包できるが、相対の内に絶対を抱える事は出来ない。毘盧遮那如来が説き、金剛手秘密主菩薩が聞くと言う順序は変えられない。「瞬時にすべてを理解できるが、一息置くとすべてを忘れる。」のはこの為だ。この様にして因果律は復活する。
おわりに
どこにも書いて無いが、大乗の命題の最終的な解は「宇宙は完全であり、人がその全てを知る事は出来ない。たとえそれを知らなくても、衆生は最初から救済されている。」である。元々救済されているので、信仰を無理強いする必要はない。仏を求めなくても地獄に落ちない。かと言って、救済を求めても極楽に行くわけではない。では「死んだらどこへ行く」のか。
もう随分永い間、壁に向かって考えている、ここ以外の何処に行けると言うのかと。
このあとは 朽ちて野となれ山となれ
供養されるべきは仏では無く人である。知る事が出来ないものを求めなくても、元々救済されている。それなら生末の不安と共に、生きている事を楽しみたいと思う。
愛しさがある 死ぬまで我でいる
平成五年四月のこと。栃木県在住の白井君から電話があった。それは彼の蘭友であるTさんのことで、真っ白のエビネが咲いたので品定めしてほしいとのことである。彼は同職にあって私の東洋蘭作りを見て蘭作りを始め、関西寒蘭会に入会していたが、平成二年、栃木県に転勤したである。
その数日後、彼から一枚のエビネの写真が届いた。エビネに詳しくない私だが、写真をよく見ると、一般に見るエビネより広弁広舌である。純白で冴えのある花だと思われ、非常に優れたエビネだと感じた。そのエビネの入手先を尋ねると、T氏が仕事で御蔵島の山道工事に行ったときに採取し、採取が冬季であったので今年咲いたのが初花だと聞いた。
Tさんは寒蘭の愛好者で、地元の展示会場で彼と初めて出会い蘭友となったようである。当時、東北地方で寒蘭の入手は主に通販で、咲くと品違いが多かったようである。Tさんは、元々、エビネには興味がなく、本音は寒蘭の素心花が欲しかったようだ。そんな訳で、話は直ぐに決まり、当時まだ高価だった「川登の白花」と交換することにしたのである。
数日後、送られてきたエビネは花が終わっていたが、生姜根付の中木3篠であった。厚葉でガッシリした葉性で、期待できるエビネであると思った。
それから数年が経ち、やっと充実した白花が咲くようになったのである。種類はコウズと思われるが、コウズ系に見られる貧弱感なく、広弁広舌で特に舌が豊である。また富貴蘭に似た甘酸っぱい香りがあり、希少価値の高いエビネであると確信した。
年毎、充実した花が咲いてきたので、この花を称して「白雲香」と仮称し、この花を祝い家内とビールで乾杯した想い出深い花である。
平成九年、神戸国際蘭展が開催された。春蘭部門の審査員を引き受けたので、出品や審査に多忙となり、数年の間、エビネのことはすっかり忘れていた。
平成十五年春、エビネがよく咲いているのに気付き、神戸蘭展に出品したいと思い、春蘭と一緒に「白雲香」を出品したのである。出展時の受付手続きの際、品種がミクラかコオズかの判断できず、受付担当に聞くなど、恥ずかしい思いをしたことだった。
東洋蘭部門の中では、エビネの個別出展が一番多く、入賞は全く期待せず、本命は春蘭と決めていた。ところが予想外にも、白雲香がトップに入賞し、ブルーリボン賞を受賞したのである。
長年、春蘭の審査員をしていたので顔見知りが多く、一鉢の出品で入賞したので肩身の狭い思いをしていたのだが、その蘭展中のこと、エビネの審査員から「渋谷さん、白雲香は素晴らしい花ですねぇ。出品は春蘭だけで十分でしょう」と笑いながら冗談を交え言われた。苦言とも感じ来年からエビネは出品しないでおこうと思った。
その翌春、白雲香が前年以上に良く咲いたのである。数日後のこと、親友が訪れ、「今年は出品する花がないわ、
何か貸してくれる蘭はないかい」と言いながら蘭舎に入り、白雲香を見るなり「今年も立派に咲とるわ、出展するのかい」と聞くので、「昨年入賞した花やから今年は出さんで」と応えると、「オレに貸してくれよ」と願うので、事情を話したが強引に持ち帰った。
“奇跡は二度起こる”が事実、起こった。「白雲香」がまた、ブルーリボンを受賞したのである。昨年のこともあって内心、嬉しいやら悪いやら複雑な思いをしたことだった。
神戸蘭展を期に白雲香が好評を博し、エビネ業者から株分けを頼まれるようになり、何時の間にか「白雲香」で流通するようになっていた。関東地方では非常な高値で売買されていたようである。
先日のこと、因みに某エビネ業者が発行している通販価格表を見ると「白雲香」が、成木1篠=10万 中木1篠=6万 小木1篠=3万と記してあり、まだ人気があるのだと驚いたのである。この機会を得て、参考までにエビネの種類について、記すことにした。
原種と交配種
原種(自然界に存在する種類)
ジエビネ・キエビネ・キリシマエビネ
ニオイエビネ・サルメンエビネ
自然交配種(昆虫による自然交配が行われた種類)
タカネ (ジエビネ×キエビネ)
ヒゼン (ジエビネ×キリシマ)
ヒゴ (キエビネ×キリシマ)
サツマ (ジエビネ×キエビネ×キリシマ)
コオズ (ジエビネ×ニオイ)
イシズチ (ジエビネ×サルメン)
スイショウ(ニオイ ×キリシマ)
ミクラ (ジエビネ×ニオイ)
人工交配種
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なお、後記になりまいたが、本誌掲載の白井さんは、現在、兵庫県に帰住して、本会に復帰し活躍されておられますので申し添えます。
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関西寒蘭会会誌編集部
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