「雄飛」の約束
中山 吉晴
小雨の降り続く蒸し暑い六月中半のことだった、と記憶している。
武雄市の光武勝己さんを訪ねた。南側の窓際に恵蘭棚のある部屋へ通された。以前から気がかりだった緑々梅弁のエビネを見に行ったのだが、恵蘭棚の下に置いてあった、葉丈十五糎程のバック出しの小木に新子付きの寒蘭に目が釘付けになっていた。
「光武さん、この寒蘭は何ネ?」
「雄飛たい」
「えっ、あのあの昨年登録された雄飛?」と念を押した。
光武さん宅から登録者の北島さんの家までバイクで二分ぐらいの所にある。雄飛が株分けしてあったので持ち帰ったとのことだった。
恵蘭の愛好家だけに話は早かった。「○○万で持って来たから、それでいいなら持って帰ってよかよ」とのこと、やった!と心で叫んだ。雄飛が我が家にくるとはとても信じられず、突然の嬉しい出来事だった。
その雄飛の花を知った起こりは、入手した前年の昭和五十二年、嬉野の展示会に今まで見たこともない、一文字平肩咲きで、弁元は黄色にぼかす広舌無点の素晴らしい花が出品されたのである。
弁先の黄色のぼかしがタヌキの尾尻みたいな色彩だったので、私と懇意の五町田酒造の社長さんとが、この花のことを通称“タヌキのシッポ“と呼んでいた。
その二週間後、社長さんと当時の山口副会長、山下登録部長と私の四人で薩摩寒蘭同好会の展示会を見に宮の城へ向かった。その車中のこと、当日の午前中に山口さんと山下さんが武雄市の展示会の審査に行かれた際 “タヌキのシッポ”と呼んでいた花が「雄飛」と命名され、出品されていたと聞いたのであった。
目指していた宮の城の展示会は、私の勘違いで、前日の一日で終わっていて見られなかった。仕方なく宮の城の業者の棚を見て回ることにした。業者H氏の棚で、山口さんが白妙の新子休みで花付きの一篠を○○○万で買われた。その機知に富んだ買いぶりと決断に唖然としたことだった。今と比べ、昭和五十年代は名品といえば三桁する高価の時代であった。
宮の城から帰って一週間後、佐賀市文化会館において、肥前寒蘭佐賀県連合会の第一回展示会が開催され、期待の雄飛や五島の紅無点花も出品されていた。雄飛は嬉野へ出品されてから一ヶ月近くになるが、花型の乱れや色彩に退色もなく、端然とした花容で名花の風格すら感じられた。
また、五島の紅無点は、小輪ながら濃紅な花色に魅力があった。聞くところうによると、長崎の展示会で苗物を五百円で買ったものらしい。展示会後、この紅花が「聖代の華」と命名登録されたのである。その数年後に嬉野へも出品されたが、木も五十糎を越す大葉となり、花も十一糎に及ぶ一文字咲き大輪花へと変貌した。現在、聖代の華は、私の棚に中木数本があるが、他にはないと思われる。
余談が長くなったが、昭和五十二年十月、雄飛に対する私の思いを告げるため、登録者の北島源六さんを訪ねた。丁度蘭舎から出てこられたところで、白髪の北島さんと顔を見合わせた。ところが無言のまま自宅へ入られ、なかなか出て来られないので帰ろうかなと思案していると「どうぞ、立ち話しは何だから、あがらんね」と応接間へ通された。
数年前からあちこちの蘭会へ顔を出す、小太りのうら若い私を見て思い出されたのだろう?と安堵した。お互い軽い挨拶を交わして間もおかず、私の思いを語った。「肥前寒蘭は、土佐や日向、薩摩などに比べ全国的な認知度が極めて低いですね。土佐は西谷物、日向は日向の誉や竜雪、薩摩は白妙と、産地の特色を持った名花を出していますが、残念なことに肥前は名花がないです」と息つくまもなくさらに「雄飛はこれらの花に匹敵する花だと思います。肥前には雄飛ありと言われる花に出世させたい!そのためには、福岡市で開催の九州連合会展や、東京や関西の寒蘭展に雄飛を出品して、肥前寒蘭の地位向上を図るべきだと思います。
その懸け橋を私に任せてください」と語気強く懇願した。時折うなずき、聞いておられた北島さんが「よく分かった、常々私も感じていた。あんたのような若者が頑張ってもらわないと肥前の発展は望めない」「なら雄飛を私に売ってください!」「えっ、お金でゃ、お金ばどぎゃすんな」蘭をはじめて八年ぐらい、山採りばかりで、交換してもらえるような花もなく金もなしで、気勢だけではどうにもならないでいると、「以前、嬉野で見た白梅が目から離れない、白梅あれば是非、作ってみたい」と言われたので「白梅なら、何とか努力してみます」と応え、帰宅した。
北島さんは、第二次世界大戦で海軍航空隊に入隊され、その部隊を雄飛隊と呼んでいたので、よい花が咲けば「雄飛」と登録したいと常日頃から考えておられたそうだった。数日後、「白梅」を採取登録された嬉野町の福田省三さんを訪ねた。
花を求めるときは登録者のもとへ足を運ぶのが私の常識であった。ところが、残念なことに見せてもらった白梅は枯死寸前の状態で、一礼して辞した。ほかに白梅を持っておられたのは、当時、嬉野の会計係をされていた中村栄一さんであった。中木四、五本を持っておられたが、蘭を大事に育てられる人だったので思案したが、思い切って訪ね、その事情を伝えた。「持って行ったらよかたい。早よう雄飛ば分けてもろうて、おとう(若者に対する呼び名)が思うようにしてくいやい」何事にも慎重な中村さんの意外な言葉に驚き感動していると「実は、今おとうが話したことが、よべ(昨夜)夢見たとさ、そぎゃんふうにおとうが言うて、うちに来たとば」と話され、中村さんのおかげで二篠を分けてもらい、その足で北島さん宅へ向かった。
白梅を携えてきた私を笑顔で向へてくれた。すぐさま二鉢を抱えてこられ、雄飛三篠を頂戴した。もう一鉢は、「為五郎」と登録してある紅無点の花で、これはお礼として頂いた。思えばあれから三十余年、記憶は鮮明に残っているが、山下さん以外の方々は故人となられ、北島さん、中村さんとの約束は果たせないまま、時を経てしまった。
私は請われたら断れない性格である。雄飛の噂を聞いてか、近くの蘭仲間や懇意にしている薩摩、球磨、土佐などから求められ、現在の雄飛は小木数篠が残っている状態である。
私から出た雄飛は正真正銘のものだが、無銘品が白西平の登録品として横行しているのが残念なことだ。
果たせるかな、産地でない関東、関西への出品が・・・。まずは、貴会の渋谷会長の和遇を得て、平成二十一年 日本一をはじめ、雄飛の花付きがないので、雄飛系の花三鉢を出品して、高く評価してもらったことと。それが何よりも肥前寒蘭の一端を知ってもらったことに意義があっと思っている。
お世話になった渋谷会長に、その雄飛系三鉢を置き土産として残してきた。同会長は、蘭作も咲かせ方にも名の通った方である。平成二十年に分譲した「力王」三篠。まだ花はこないであろうと思っていたが、その翌年早々、力王に立派な花を咲かせ出展され、衆目を受けられたことは目新しいことである。近い将来、これらが関西寒蘭会の展示会に並ぶとき、肥前寒蘭の先人達から喜んでもらえるだろう!と思っている。これが、肥前寒蘭の発展に少しでも寄与できたことが私の喜びでもある。
嬉野肥前愛蘭会会長
関西寒蘭会顧問
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