関西寒蘭会 会誌票題 (山田無文 老師) 表紙 (鎌田糸平 画伯)

 素心とは張猛龍碑(中国北魏)の中にある「素心若雪」(素心は雪の如し)から採られた言葉で、高ぶらず飾らない素直な心と言う意味です。

 東洋では蘭の観賞において薦めて擬人化が行われ、孔子故事“芝蘭生幽谷 不以无人而不芳 君子修道立德 不為窮困而改節”(芝蘭は奥深い谷に生え、人が居ないといって香らない事はない。君子は修行して徳を積む、貧困のために節を改めるのではない。)という事から「君子で無ければ蘭花の徳は見えない。もし蘭花に徳が無ければ君子は蘭花を顧みなかっただろう。」というわけで、蘭花を「君子の徳を備えた花」として観るようになりました。転じて「素心」という語は蘭蕙の舌弁(リップ)に斑点が無く(心に濁りがないという意味で)花弁と花軸(シュート)が緑白で他の色を含まない清楚な品種の総称になりました。

 この様に東洋蘭は永い歴史(中国唐代に栽培の記述がある)の中で儒教に強く影響を受け、独自の美的評価と文化的価値を創り、独特の言語表現で表記するようになりました。例えば、会誌「素心」表紙の様な墨蘭図(蘭蕙を水墨で表したもの)の場合も、描かれた作品の芸術性には視点を置かず、書かれ時点の作者の心境に視点が置かれます。

 東洋蘭を観賞すると言うことは、一般の草花の観賞とは全く次元の異なる、東洋的世界観との出会いを意味します。それは東洋の美術品を普遍、相対的に評価する様な客観姿勢ではなく、東洋的世界観の主体的な実体験を意味します。その違いは…、貴方が東洋蘭を極めればきっと判ると思います。

蘭蕙[ケイ]:中国では一つの茎に一つの花が咲く春蘭のようなものを蘭と呼び、一つの茎に多くの花が付くものを蕙と呼んで区別する。日本で蕙蘭というと、葉芸を鑑賞する特定の種を意味する。
寒蘭:日本の暖地にまれに野生するラン科の多年草で、中国、韓国にも自生が認められる。古くから東洋蘭として珍重され栽培される。葉は深緑色の線形葉で根生し、硬く厚い。晩秋に花茎を立てて上方に芳香のある淡黄緑~帯紅紫色の線形花被片の花を数個つける。
東洋蘭:中国唐代の栽培書が有るほど来歴は古く、東アジア全域で愛倍されている。Cymbidium属の一部を指す言葉で、分類学的な意味では無く文化的な意味で用いられる。参照(東洋蘭用語集)

初代会長 井上隆四郎氏の原稿を会誌「素心」より再掲載します。

 蘭と初めて逢いし頃

井上隆四郎

 自分が蘭と出逢ったのは昭和の初期で寒蘭並びに中国春蘭も数少なく、培養している者も僅かで、特に阪神地方では珍しい植物として取扱われていた時代。寒蘭界は武陵・桃源時代で桃源は当時福岡の岡本彦馬氏が培養されて居って、これが最高稀貴品としてあがめられ私なんか見るチャンスもなく、唯語り草にしていたものだ。今日の寒蘭界は各地に珍品が続出してその美を競い今昔の感に堪えません。

 当時(昭和十二年五月)東京上野美術館で満州国建国を記念して日満華東洋蘭大展示会が開催され、花物出品は少く蕙蘭主体だった。白分は柄物は培養していたが逸品はなく、やむ得ず九華「江南新極品」が花五本あがり見頃だったので出品し、大臣賞を獲得して帰った。

 この木は須磨の資産家で盆栽の愛好家だった田中と云う人から譲り受けたもので末だ日本にはこの木しかなかったのである。

この事が神戸新聞で大々的に写真入りで掲載され話題となり、当時末だ大丸・そごう共大百貨店でなく、元町で小規模の店だった時代で、現在の三越百貨店で一週間にわたり展示されたのである。その後天皇陛下が神戸地方行幸の際、神戸駅の貴賓室で御休憩になり、盆栽と併せて蘭一鉢を出して欲しいとの要望が当局からあり蘭を出したことがある。その蘭が寒蘭であったか九華であったかは覚えていない。現在では想像も付かない時代だった。

その後永い歳月を経て昭和四十六年十一月十四日拙宅で寒蘭の展示会を開催し、その席で現在の関西寒蘭会が有志で生まれ、十一年を経過して今日の隆盛なる寒蘭会に育ったのである。

会誌「素心」の歩み (21号-29号)

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