関西寒蘭会第37回本花展優勝花(2007年度)
  • 総合優勝「更科」宮崎満
  • 白花優勝「素豊」永田光雄
  • 紅花優勝「酔桃」渋谷博
  • 桃花優勝「北薩の誉」岩本孝之
  • 黄花優勝「無名」鎌田徳三郎
  • 青々花優勝「銀鈴」岩本孝之
  • 更紗優勝「福の神」吉見勲
  • 青花優勝「無名」岩本孝之
  • 文人優勝「都どり」岩本孝之
  • チャボ優勝「無名」平井裕
  • 柄物優勝「天山」渋谷博
  • 晩花優勝「太湖」吉見勲
  • 早花優勝「稀青」岩本孝之

花会審査報告 ---審査部---
岩本 孝之

○早花会

温暖化の影響がもろに出て、なかなか花が咲くにいたらず、出品はやっと二十一鉢でした。参加者の投票をもとに審査した結果、優勝は阿波の青々「稀青」に決まりました。花が少ない時に八輪を咲かせ、姿も堂々としていました。この花は引き締めて作ると、なかなか見応えがあります。金賞の「抱月」は小ぶりながら、鉢を含めた姿に味わいと品がありました。銀賞の「土佐無銘青」は、弁幅広く大きな舌点があり、ボッテリと今風の花でした。食指を動かした同輩も多かったのでは?その他は銅賞に入った平井さんのかわいい青チャボが目を引きました。早花会はこれからできるのかと、少々心配になりました。

○本花会

十月に入っても暑い日が続き、花の開花が遅れ、出品は六十七鉢で、例年の三分の二ほどでした。総合優勝は宮崎さんの「更級」です。古い、しぶい花で、うまく咲かせるのは難しい部類に属します。やや小ぶりではあるが、品よくまとめていました。とかく大ぶりで派手な花が目立つ中で、こうした古い花がいい花を咲かせるのは、かえって新鮮な感じがします。白花優勝の「素豊」は作がよく勢いがあり、花がもう三~四輪咲いておれば総合優勝にも届いたのでは、と思いました。この花といい金賞の更紗といい、永田さんの作のよさが目立ちました。お風呂の残り湯をかけ水にしているそうですが、すると、作者の栄養が届くのでしょうか。紅花優勝の「酔桃」は、花色よく舌も特徴を出していました。この花は本場紀州でも作りにくいと聞きます。本咲きすると、ステンドグラスのような、濃い葡萄酒のようなすばらしい色になります。渋谷名人にはいっそうの期待をしたくなりました。桃花は三鉢しか出品がなく、その中では「北薩の誉」がいい色を出していました。桃花は下手をすると更紗になったり茶色っぽくなったりします。この花は濁りのない方でした。黄花は四鉢で出品者は二人。温暖化に一番弱いのが黄花ということでしょうか。鎌田さんの無銘花が、この中では黄花の風情が感じられました。青花と青々もそれぞれ四鉢ずつの出品。優勝した清水産無銘は私の花で、咲くのは三回目です。今回の花はこれまでと違う花型で、気に入りました。寒蘭は本咲きさせると違うものだと感じました。銀賞の「呑兵衛」も舌の大きい特徴を出していました。青々の「銀鈴」は木が大きく輪数も多いので、優勝しましたが、欲をいえば花間が詰みすぎていました。花間のあるなしは、気候と関係があるように思います。これも温暖化の影響でしょう。小森さんの「白鳳」はなつかしさを感じました。続けていい花を咲かせてほしいものです。更紗優勝は「福の神」が繰り上がりました。更紗は同じ花でも咲かせ方によって花色も姿も変わります。その意味ではプロ好みなのかもしれません。文人作りも出品が二鉢だけ。「都どり」は私の作品です。針金をかけて花軸を曲げてみました。こういうのは、人によってとらえ方がマチマチだと思います。ただ、いつも同じように咲かせるのはおもしろくないので、遊んでみました。チャボも出品が二鉢。平井さんのチャボはよく咲いて魅力がありました。柄物は「天山」が花をつけてみごとでした。総合優勝を争いましたが、惜しくも次点となりました。

総体に今年は気候の影響が出て、もう一つでした。晩花会に期待しようという気にさせられた展示会でした。

○晩花会

本花会が少なかった分、晩花会に多く集まりました。全部で百六十六鉢で、これまでで最高ではないかと思います。特に青花と紅花が多く集まりました。ここでしか見られない珍しい花やいい花が展示されて、圧巻でした。総合優勝は青花の「太湖」です。花は弁幅広く存在感があり、葉姿もよかったと思います。花弁の広いボッテリした花の流行はしばらく続くのでしょうか。白花優勝は「白妙」です。花軸が八十数センチに伸び、全体に大きく伸びやかな作品でした。白妙は色々あって、この花は弁幅がやや広く花全体が丸い印象を受けました。その他は「豊雪」がたくさん出品されましたが、その中で最も色のよかった平井さんの作品が銀賞になりました。紅花優勝は「室戸錦」です。室戸錦と緋燕の出品が多く、これもその中で最もいいものを選び出し、中西さんの「室戸錦」が優勝になりました。その他、金賞の「仁王」は花弁が格別広く、目を引く花でした。桃花優勝は大株の「桃里」です。長短二本の花茎を上げ、明るい桃色を出していました。桃の発色も赤みや紫味、黄味や青味を帯びたりと色々です。比較的濁りの少ない色合いでした。黄花優勝は岡崎さんの無銘花です。花、葉、鉢と神経の行き届いた清潔で品のある作品でした。更紗優勝も岡崎さんの「薩摩産無銘」です。これも更紗特有の品のよさ、優しさ、繊細さがあり、作者の花作りの技術の高さを感じさせました。黄花金賞の「隼人」は、今年は花に青味が残ったのが惜しまれます。この花は青花で登録されたくらいで、黄に発色させるのは難しい部類の花です。それと、この花は葉が厚ぼったく大きくなりやすく、中折れするのが欠点です。青々は出品が二鉢と少なかったのですが、中では「銀鈴」が優れていたので、これを優勝としました。青々花は今流行の青のベタ風のものなどより、品よく清浄な感じがあり、よく咲いた美しさは格別です。銀鈴が色合いよく花間を取って咲けば、それこそ最高です。青々のよさは見直されてよいものと思います。青花優勝は私の「瑞鶴」です。これも今回初めて本咲きしました。八十センチ以上の花茎に一文字咲の花八輪をつけた姿は、雄大です。少々自画自賛で恐縮ですが、鶴でも飛んでいるようです。金賞は高井さんの「都どり」です。花弁も舌も曲がらない花容は、緊張感を漂わせていました。ただ数年前この花を初めて見た時ほどの衝撃は、感じませんでした。人間は勝手なものです。ともあれ、作者の技量の高さが表れていました。賞には入りませんでしたが、圓尾さんの「三笠」はいい色が出ていました。青花は出品数が多く、賞外にもいい花がかなりありました。チャボは渋谷さんの「日向王」が他の追随を許しませんでした。早くからチャボ花を手がけてきた渋谷さんの丹精が光ります。また中西さんの「紀ノ川」はいかにもチャボらしい花型、見事な丸舌で、すばらしいものでした。渋谷さんの「紀ノ川系」もそれに劣らずいい花でした。柄物優勝は「春光」です。葉傷みなくいい柄を出していました。また「孤舟」が二鉢出ていましたが、品のある玄人好みの花だと感じました。文人作りは私の「一の滝」が優勝です。紀州の青花で曲がりにくい固い舌の模様に特徴があります。十五年目にやっとそれらしい花が咲きました。これもサツキなどに使う針金をかけて、花茎を滝のように二段に曲げようとしましたが、蘭の花は上にまっすぐ延びる性向があり、思い通りにはゆきませんでした。変わっているところが評価されたと思います。森江さんの「千歳」も小ぶりながら、味わいのある作品でした。

今年の晩花会は、数量ともに近年最高だったと思います。寒蘭も安くなりました。できれば五本立ち以上にして、本咲きを楽しみたいものです(もちろん、小ぶりで引き締まった作品は、それはそれで価値がありますが)。

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おのぶ 悲恋蔦沢の民話より
中西 昭彦

 地球温暖化の影響か、猛暑続きの毎日ではありますが、蘭舎の下に打ち水をしてやったり、肥料をマグアンプK以外にはまったく遣らないで水のみをザーザーと遣ったりしていたところ、思っていた以上に上作に育ってきました。この時期の新芽の美しさ、瑞々しさが大好きで、飽きもせず眺めている毎日です。春蘭もこの頃手を伸ばしているところですが、この時期の寒蘭の新芽の魅力には遠く及ばないように思います。

 さて、今回も蘭外で申し訳ないと思いますが、宍粟市山崎町蔦沢に伝わる民話の中から、“おのぶ悲恋”という話を紹介したいと思います。これは平成元年8月に発行された“蔦沢の民話集”(350部限定版)の中のもので、語り 矢野寅之助、筆者 小西優 両氏によるものです。

 延ヶ滝由来記 おのぶ 悲恋

 蔦沢地区の上の下部落にある、河原山川の上流に延ヶ滝(信ヶ滝)というなかなか見事な滝があります。四十年ほど前までは、もっと素晴らしい姿でしたが、今の県道が出来たその工事で埋まり、以前に比べると少し淋しい滝になりました。この滝がなぜ延ヶ滝といわれるようになったのか、それにはこんな悲しい話が都多の里に昔より伝わっています。

 それは今から何百年も前のことでしょう。この川の滝より五百米位上流の傍らに、野の隅という平地があります(現在の大国牧場です)。ここに昔一つの集落があったそうです。(砂金を採る人々が住んでいた、又は木地屋を職とする人々が住んでいたと、二つの説がありますが、私は木地屋説をとります。)

 この村に一人の若者がいました(名前は伝わっていません)。若者は母親と二人で暮らしていました。この若者が或る時、友達と室(むろ)の明神様にお参りをし、其の時、室の遊女街で“おのぶ”という若い遊女と知り合いました。“おのぶ”は、まだ若く気の優しいおとなしい女でした。二人はすっかり好きになり、“おのぶ”のつとめの年季が明け、自由の身になったら夫婦になろうと、固い約束をしました。そして若者は野の隅に帰りましたが、おとなしい若者は、“おのぶ”のことを恥ずかしくて母親に話すことが出来ませんでした。それがこの悲劇の起こる原因になりました。

 やっと長いつとめの年季が明けて、“おのぶ”は自由の身になりました。若者との約束を信じていた“おのぶ”は、恋しい若者を訪ねてはるばる野の隅の里に向かいました。今と違って女の足で、それは辛い旅だったでしょう。訪ね訪ねて都多の里に入り、そして険しい河原山の山道を登りました。それはそれは恐ろしい事だったでしょう。“おのぶ”はようやく若者の家の前まで来ました。それは既に日も大分傾きかかっていた時刻だったのです。

 そして“おのぶ”は若者の家に入り案内を乞いました。ところが不幸にも若者は留守でした。もし若者がいたならば、“おのぶ”の運命も変わっていたでしょう。が、家には母親が一人で留守番をしていました。

 “おのぶ”は母親に若者との約束を話しました。聞いた母親はビックリしました。そのはずです。母親は何も聞いてはいなかったのですから。そして大変困りました。当時遊女あがりの女を家の嫁にするなんて、考えられないことだったのです。苦し紛れに母親は辛い嘘を言いました。「“おのぶ”さんとやら、貴女が訪ねてきてくれた息子は可愛そうに死にました」

 びっくりした”おのぶ“を連れて母親は、新しい一つの墓に案内しました。・・・それは最近亡くなった近所の人の墓でした。しかし字の読めない”おのぶ“には、それが嘘とは分かるはずがありません。ただ泣いて身の不幸を嘆くのみ。そして泣き泣き母親に別れを告げて山を下りました。すでに日の暮れに近い頃だったようです。白い足に赤い鼻緒の草履が一際哀れであったそうです。それが生きた”おのぶ“の最後の姿であったとか・・・。

 あくる日、村人は下流の滝壺の中に、若い女の死体が浮かんでいるのを見つけました。それは哀しいほど美しい“おのぶ”の変わり果てた姿でした。そして滝より少し上流の、深い淵の傍らの木の枝に、赤い鼻緒の草履が片足、引っ掛かっているのが見つかりました。誤ってその淵に落ち込んだのか、または世をはかなんだ“おのぶ”が自ら身を投げたのか。それは“おのぶ”自身以外には知る由も有りません。

 それから何時とは無しに、“おのぶ”の浮かんでいた淵を「お延の滝」といい、後には『延ヶ滝』と言われるようになったそうです。そしてまた“おのぶ”が落ちたと思われる淵を『女郎淵』といわれたのです(遊女のことを女郎という)。女郎淵は今でも青々とした水を湛えています。“延ヶ滝”は今尚昔ながらの飛沫を散らしています。

 一度、河原山を溯り青葉紅葉を探りながら、哀れな女“おのぶ”の面影など偲ばれるのも、夢の少ない今日この頃、よきロマンではないでしょうか。

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蘭鉢作りの妙味
森江 潤二

 蘭鉢を作らんと老人大学の陶芸クラブに入って早八年が過ぎようとしている。陶芸クラブで最初に教えてくれるのがコップと皿である。手回し轆轤を使いひも作り、タタラつくりの基本を学ぶ。乾燥、素焼、釉薬、本焼と多くの工程をおえて、出来上がりを見て陶芸の難しさ、奥深さが感じられる。早速小さい春蘭鉢に挑戦、なんとか形は出来るが、猫脚に悩んでしまう。市販品を見る限り簡単に見えるのであるが、いざ作ろうとするとまず形が揃わない。苦労して猫脚型が出来上がり、鉢下部に同じ粘土で接着するのであるが、取り付け位置・取り付け角度のホンのちょっとした誤差が目立ち、何回も手直しすることになる。そして乾燥、素焼、釉薬、本焼と進む最後で割れ、ひびが入ったりで、つくづく猫脚の難しさが感じられ、猫脚は当分やらないことになってしまった。

(写真挿入)

鉢上部口縁も当初難しく時間がかかったが、粘土の乾燥度合いをつかめば、大小問題なく作れる。なんでも同じであるが、繰り返し、慣れることが大切である。胴部の形も坪型、徳利型、竹筒型、丸型、胴絞り型、いろいろ作るが、春蘭・寒蘭に似合う型も暗中模索で、製作鉢に蘭を植えてみるが、今のところそんなに不自然な型は見当たらない。ただ、実用性から植えにくかったり、用土が沢山要ったりするものが有り、この点市販品は時間を掛けて淘汰されたものだけに、納得のいく型になっているようである。小生も現在はほとんど胴絞り型の鉢が多く、加えて蘭が気持ちよく育ってくれるであろうと期待しながら、一つでもストレスを解消すべく底水型の鉢に取り組んでいる。此れまでの鉢より二工程余分に掛かるが、文字通り底に水を溜められる鉢である。蘭に何時でも水を飲めるようにと考えた結果のことで、昔寒蘭ショウガ根を出さそうと実験した経緯があり、その経験が頭のどこかに残っていたもので、滞留水は蘭に良くないとは思うが、水遣り毎に変わるので問題ないと思っている。昨年から実際に蘭(春蘭・寒蘭)を植え込み試験を繰り返しているが、今のところ問題ないようで、水に根をおろした蘭の中には多量の新芽を出す蘭がある。又、普通三枚葉二~三株立ちの花の付かないような株にも花芽が出ており、花付も良くなるように働くのではないかと今のところ観られる。

 (写真挿入)

 基本的に蘭鉢は控えめなほうが良いと思う。引き立て役に徹すべきであると考えると、形もどうしてもシンプルなものを考えてしまう。シンメトリーになるのである。この点は自分の作を続けていく中で、何時か枯れるときを待つしかないのだろうと、無理にアンシンメトリーな物に取り組もうとはしていない。あるがままでよいと考えている。何時か神秘的な鉢が出来るかどうか、ただ無心で作るしかないのである。

 (写真挿入)

 この世界は型つくり、土と釉薬と熱の総合的な機能の発現によって出来上がる。ただただ作り続け体験していくことで得るものである。思いもよらないものが出来ることはほとんどないが、出来た鉢にどの蘭が喜んでくれるかと考えることが又楽しみでもある。蘭を作り始めて四十年近くなろうとしているが、蘭にはいろいろと教えてもらった。これからも何を教えてもらえるか楽しみにしている。

 蘭作りの皆様に何かの役に立てば幸いである。         合掌

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還暦記念登山---槍ヶ岳へ---
平井 裕

 山に行くのは、大体家内と一緒に行くのが常で、日本百名山と呼ばれる山には、三十ぐらいはいっしょに登っている。でも、どうしても行きたがらない山があり、その一つが槍ヶ岳である。どうも家内はごつごつした岩場を歩くのが好きでないようで、お花畑を楽しみながら登るのがいいようである。またまた、槍登山の話しがあったので、一人で勝手に申し込んでしまった。この四月に還暦を迎え、体が動くうちにという気持ちもあった。家内も快く一人での山行きを許してくれた。還暦記念で登った山行きを綴ってみることにする。

 八月二十七日新大阪二十二時発の「さわやか信州号」にて出発、山行きはほとんどがマイカーなのでバスで行くのは初体験、運転しないですむのは楽ではあるが、狭いシートに、じっと座っているのは苦痛以外の何ものでもない。アルコール類を買い忘れたので、なかなか眠れなかった。しかし、時間が経つにつれ、浅い眠りにはつくことが出来た。予定通り午前六時上高地に着いた。軽く朝食をとった後いよいよ出発、時間は七時だ。河童橋左手に見ながら、梓川沿いに白沢出会、徳沢を経て横尾山荘へ、ここまでは林道か遊歩道を歩いているような感じで、森林にいっぱいあるマイナスイオンを吸い込んで快適そのものだ。横尾でちょっと早い昼食後、今日の宿泊地である槍沢ロッジに向けて出発、いよいよ山道らしい道に入り込んだ。そうこうしていると、今まで曇り空ながら何とか降らずにいた空から、ぽつりぽつりと雨粒が落ちだし、慌てて雨具とザックカバーをつけた。滑りやすくなった山道を一歩一歩確かめながら、二時間余り、槍沢ロッジに着いたのは午後一時十分だった。着いて一時間も経たぬうちに、雨は本格的になっていた。ビールで渇いた喉を潤したら、急に眠気に襲われ二時間近く眠った。雨が小降りなったので槍の穂先が見える場所まで行き、明日登る槍ヶ岳を確認しました。ロッジに戻ると韓国から来たというパーティーがいて、槍ヶ岳の人気の高さに感心させられた。

 午後五時に夕食、8時半消灯、明日朝6時出発に備え床についた。翌朝4時半に目が醒め外に目をやると、どんよりした曇り空でいつ雨が降り出してもおかしくない天気、ゆっくり準備をして、出発に備えた。予定通り小屋を後にし、急登とはいかないまでも、十二~十三㌔のザックを背負って、少しガレた石ころの多い山道を登っていくのは、かなりの忍耐を必要とした。大曲、天狗原を経て殺生ヒュッテ、槍ヶ岳分岐で少し早いが昼食、時間を見れば十時三十分殺生ヒュッテを右手に見ながら再び登り開始、最後の難所である七曲がりをゆっくりと登っていく。急登とは思わないが、かなりきつい。槍ヶ岳山荘に近づくに連れて岩に白いペンキで書かれた後何メールの標識が目に入ってきて、「後四百メールか」「後二百か」と思いながら、やっとのことで山荘前に着いた。山荘にザックを預け、身軽になって山頂へ。あと百メートルちょっとである。クサリ、ハシゴを慎重に使って山頂を目指した。ほとんど直登の岩場を二十分、やっと山頂に辿り着いた。早速、いつも山頂に着けばやるように、三角点にタッチ。小さな祠が山頂にあり、無事登って来れたことに感謝込めてお礼を言った。標高三千百八十m!!幸い雨はまだ降っていなかったが、ガスってて何も見えなかった。せっかくなので、祠と一緒に記念のワンショット。約十五分山頂にて感慨に浸っていた。気がつくと十二時三十分、小屋を出てから六時間半が経っていた。再び槍ヶ岳山荘に戻り、西鎌尾根を今日の宿泊地である双六小屋目指して出発した。左俣岳、硫黄乗越を経て樅沢岳へ、五~六回山を越した。途中、本当前が見えないぐらいの雨に会い、多少不安を抱いたこともあったが、仲間とお互い励ましあい何とか乗り切ることが出来た。樅沢岳から眼下に双六小屋を見たときは、本当ホッとした。小屋に着くまでに途中雷鳥にも出会え、再び元気がでてきた。結局、小屋に着いたのは五時三十分だった。通常遅くても四時ぐらいには山小屋に着いているのに、こんなに遅くなったのは初めてだった。双六小屋の食事は他の山小屋にない心温まるもので、疲れた身体を早く回復させてくれたような気がした。明日は新穂高温泉に向けて下るのみ、ゆっくり休むことが出来た。

翌日、七時に小屋を出発、弓折岳を経て鏡平へ、鏡平山荘で休憩している最中にオコジョとも出会え、うまくワンショットすることも出来た。雷鳥には、たまに出会うがオコジョを会えるなんて初体験!本当にラッキーqだった。鏡平を出てから再び本格的に雨が降り出し、雨の中小池新道をわさび平小屋へ、小屋であったかいうどんを食べ、元気を取り戻して再び雨の中を新穂高温泉へ向かった。着いたのは午後二時十分で、出発してから七時間が過ぎていた。送迎車で予約していた民宿へ、民宿に着くなり濡れた雨具そっちのけにして、冷たくなっていた身体を温めるために温泉に入り疲れを癒し、その夜は岩魚の刺身や飛騨牛の味噌焼きなど、美味しい奥飛騨料理をいただいた。これで、本当疲れは、吹っ飛んでしまった。翌日、タクシーで再び上高地へ戻り、バスの時間が来るまで、河童橋から田代橋まで散策し、再び「さわやか信州号」で新大阪に戻った。

 こうして私の還暦記念登山の四日間は終わった。今までの山行きでこれだけ雨に降られたのは初めてだし、いろいろな体験もさせていただいた。しかし、これからも身体が動く限り、山登りは続けたいと思っている。それと、もう一つの趣味である蘭作りを両立させながら、過ごしていきたいと思っている。最後に、今回の山行きでいろいろお世話になった、リーダーである神戸ザックの星加さんと「イモック山遊会」の皆さんに感謝する。

編注 写真3枚あり、「山」「動物」「鳥」

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関西寒蘭会会誌編集部