関西寒蘭会第33回本花展優勝花(2003年度)
  • 総合優勝 日本の華 小杉 裕道
  • 白花優勝 白妙 小杉 裕道
  • 紅花優勝 神竜 圓尾  栄
  • 桃花優勝 日光 又川 金仁
  • 黄花優勝 神曲 又川 金仁
  • 更紗優勝 幽玄 小杉 裕道
  • 青花優勝 銀鈴 岡崎 春海
  • 文人優勝 無銘 森江 潤二
  • チャボ優勝 無銘 渋谷 博

東洋蘭史考(前編)--中国の養蘭史と新品種--
野口 眞人

以下に記載するものは複数の中国蘭関係ホームページを翻訳し抜粋編集したもので、典拠を確認した訳では有りませんので、記述内容に関する責を負うものでは有りません。また、日本語として意味が通らない部分は最小限の書換えを行っていますので、必ずしも原文に一致しません。同時に、残念ながら私の能力を超える部分は不明のままで止めています。詳しく調査したいと思われる方は、原文をお渡し致しますので、お申し出ください。尚、翻訳部分に付いてその著作権は中国サイト側に属するものと思いますので転載は不可です。

 「中国で東洋蘭を培養するようになったのは、早くても明代ではないか。」と訊いていたので、中国語の「養蘭史略」は新たな発見でした。もちろんこれらの記述が全て正しいとは限りませんが、典拠、出版年号が記載されていますので、古くから蘭の栽培が行われていた事は、歴史的事実と言えます。興味の有る方はぜひ追確認して頂きたいと思います。

 また、「国蘭の欣賞」では、分類その他で基本的に日本の評価基準に類似していますが、現代中国人の蘭花観賞の基準が文脈から読み取れ、中国ではなにゆえ奇花が好まれるのか少しだけ解るような気がします。

養蘭史略

今日中国蘭―国蘭―(訳註1)と称するものを、古代は蘭蕙と称した。(訳註2)蘭は我が国の有名な花卉である。それの美しい多くの姿は、微かな香りを配っているため歴代の詩人墨客は常にこのために詩を吟じ絵を描いた。春秋時代、今から二千四百年前に、中国文化の先師孔夫子は説いている。“芝蘭は奥深い谷に生え、人が居なくても香らない事はない、君子は修行して徳を積む、貧困のために節を改めるのではない。”(訳註3)

また孔子は《蘭操》の中で、蘭を“王者の香“と誉めた。(訳註4)

しかし孔子の時代の蘭に対する記述に関しては異なる見方がある。ある人は、春秋時代の守国があったのは河南北部で(今の滑県の一帯)、魯国は山東省にあり、孔子が山東省に行く途中で生い茂っている野生の蘭を見る事はありえないと言っている。そのため孔子の言う芝蘭は、本当はキク科の草本植物のフジバカマを指すと。(訳註5)

しかしある人は別の見方を持っている、孔子の言う芝蘭が奥深い谷に生えると思っているのは、その当時の蘭の生息環境に対する記述の非常に詳細な部分に対してであり、その上その当時の気候は今日よりあたたかく、河南の一帯は竹が成長していた、竹の山地がある所には必ず蘭の分布がある。そのため、孔子の当時の道は深い林と幽谷を通るので、蘭が茂っていることに会う事は珍しくない、彼の言った芝蘭は現在言うところの蘭である事は真実である。

その他にも《左伝》、《越本》、《楚詞》、《蜀志》、《晋書》などは蘭に対する記載がある。偉大な愛国詩人の屈原は国事を憂いて、《離騒》(訳註6)の中で蘭の品格の高潔さになぞらえて、自分の楚国人民に対する深い感情を述べている。その後人々は、文章詩や詞(訳註7)の中の品格と節操を守り気骨がある様子を蘭に例えた。

古代の人々は最初、野生の蘭を採集するが主で、人工的な蘭の栽培は宮廷から始まった。魏晋時代以後、蘭は宮廷の栽培から士大夫階層の自家の園林にまで拡大した、そして花木のある庭に飾りを添えるために用いた、環境を美化して、まさに曹植の《秋蘭被長坂》詩中の描写のようである。

唐代

唐代に至って、蘭蕙の栽培はやっと発展して一般の庭園と花卉農家が栽培を行った、唐代に大詩人の李白が書いた

“幽蘭香風遠、蕙草流芳根”などの詩句がある。

 蘭を鉢植えにする事は唐朝に始まる。その当時、王摩詰はすでに養蘭に対する研究をしていた、彼は“蘭を蓄えるのに黄磁斗(訳註8)を用い、綺石で養って毎年弥盛。”と言及している。郭?は《種木本》の中で、“蘭蕙はぬれることを恐れ、水を撒き散らすことを最も忌む。”と言及している。また《清异录》の中に“南唐保大二年、国主幸飲香亭は新蘭を与えた、詔苑令は上海の谷川で馨烈候のために美上(訳註9)を取る用意をした”、この説明は土壌を選ぶ時の注意である。

宋代に入って

宋代は中国の芸蘭(訳註10)の最盛期で、蘭芸の書籍および論述が多い。しかも古代の蘭の弁別に対してある程度の論争があり、多くの書籍の中で話題になった。

 宋代の羅願の《尓雅翼》には

“蘭の葉は莎(訳註11)の様で、春にひとつの首を出す。その花は非常に香り高く多くは森林の中に生える、そよ風は過ぎて、その香りはなごやかに外に達する、だから芝蘭という。江南の蘭はただ春に働くだけで、荊楚と福建のものは秋夏に更に香る。”と書かれている。

 黄庭堅は蘭に対して更にある程度の研究をした、彼は《幽芳亭》中で

“蘭蕙は生い茂る、砂利で植えて茂る、湯茶はよく肥沃になる。”

と書いている。彼はまず蘭に対して分類を行った“一花をして、香ばしい蓄えがある者を、蘭という、1干(訳註12)5~7花、香りの不足する者、蕙という。”

 範成は《次韵温伯種蘭》の中で大いに言及した、“蘚苔を持って栽培し、ほこりと垢を拭いてかばう”、既に鉢を以って蘭を装飾していた事が判る。

 理学の大家である李愿は《芸蘭月令》の中で、広東、福建の一帯の芸蘭を庇護する掟を12ヶ月に分けて方法を書いた、詩歌の様式で口訣に編む。それ以後の著作は李愿の《芸蘭月令》にまねて編むようになり、明らかに宋代の芸蘭の論述が後世に対して深く影響している。(《芸蘭月令》の具体的な内容が“蘭花歴史”の中の“蘭花養殖”の欄に見られる)

趙国時代

南宋の趙の時代に庚が書いた《金漳兰谱》(1233年)は、我が国の一番早い蘭の研究の一部を留保する著作で、今なお世界で第一番の蘭の専門書だと言うことができる。全書を容質、品評、愛養、封植、灌漑の3巻5部に分け、“容質”の章の中で紫蘭と白蘭の二つを区別し(すなわち現在の墨蘭と建蘭素心を指す)、紫蘭(墨蘭が主要部分)と白蘭(つまり建蘭素心)の32品種に付いて形態の特徴を簡単に述べ、蘭の品位を同等に扱っている。

その後王貴学は南宋時代の淳佑の年間に《王氏蘭譜》(1247年)を書き、栽培の各法を等級分け、灌漑、分析、培養土などの章に分けて、30数種の蘭蕙の品種に対していっそう詳しく述べた。彼は”等級”の中でまた40種の園芸品種を補充した。上述の2冊の蘭譜は広東、福建の一帯の特産物である蘭の総括をしたものである。

それ以外にも宋代には《蘭譜奥法》がある、これは栽培法を主としたもので、幾つかの分種法と花の栽培法、安定させる潅水法(訳註13)、潅水法、施肥法、防虫法など7つの部分に分かれている。また呉は《種芸必用》を書き、蘭の栽培に対する紹介を行った。

1256年、陳景沂の書いた《全芳備祖》は蘭に対する記述が比較的詳しく、この本の刻本の全ては日本の宮内庁に収集され蔵書されている、1979年日本は影印本を我が国に返した。宋代、蘭を題材として中国画に趙孟堅の描いた《春蘭図》がある、これは現存する一番早い蘭花の名画だと思われている、現在は北京の故宮博物館内に秘蔵されている。

元代年間

元代、孔静紊は《至正直記》の中で、広東、福建以外の蘭を並べて述べた、また江西、浙江の一帯の蘭を話題にした、これはその当時の社会がすでに浙江の蘭を重視していたことを意味している。本の中で蘭の培養に関する古語を引用して述べている、“晴れることを喜び日差しを嫌う、曇ることを喜んで湿りを嫌う、おくゆかしさを喜びひがむことを嫌う(訳註14)、乾燥を欲し強い日差しを嫌う、潤いを欲して多くの潅水を欲しない、日隠を欲して暗がり(荒蘿)を欲しない、盛んなるを欲して苗が繁雑になると敗ける”、“蘭を盛る竹方(訳註15)があって、つまり晴れを喜び悪い日を嫌う、おくゆかしさを喜びひがむ事を嫌う”、これらは簡単に蘭の習慣と育成の要領を押さえて叙述したもので、今なお一定の参考に値する。

諸々の多くの蘭譜が出現したのは、我が国の沿海部一帯の気候が温和で、また水上運輸は便利であり、商業が次第に発達したからである。浙江の蘭の栽培方法は迅速に発展して、芸蘭の品種は日に日に増加した。

明代に及んで

 明、清両代、蘭芸はまた盛んな時期に入った。

途切れない蘭の品種の増加に従って、栽培経験は日毎に豊かになり、すでに蘭の栽培は大衆が観賞する対象になった。また、蘭に関連する描写や書籍、画集、詩句と磁器、工芸品への蘭の図案の数が多くなった、張応民の《羅籬斎蘭譜》、高濂の《遵生八箋》の中にも蘭の記述がある。また明代の薬物学家である李時珍の《本草綱目》の中に、蘭の種類と用途に付いて考証などを行ったことを詳しく叙述した、そしていくつかの古典書籍の中の花に言及して、葉都香(訳註16)のあのような花香葉は、決して後代の人の言った香りの無い蘭ではないことを指摘した、このような論述はかつて各家長の時期に引き起こした論争がやまない事に起因しており、一体どれがどれなのか、今後さらに考えが進められる事を待つ。

 《蘭譜奥法》は蘭を植えるのに山の土を使わなければならないことに言及している、そして花を削除する事と、鉢を替えること(訳註17)が述べられている。《遵生八箋》は蘭には4つの戒めがあることに言及し“春は出さず、夏は日に当てず、秋は乾かさず、冬は濡らさず。”と述べている。

 王世翰の《学圃雑疏》は養蘭に間隔をあけて鏡箱を置くことにより水でアリ、ネズミ、ミミズ、などが侵入することを防ぐことに言及している。その後、蘭芸の道の論著が次第に増え、鹿亭翁《蘭易》,潟京第(即簟溪子)《蘭易》、《蘭史》、王象晋《群芳譜》など、蘭の産地、品種、育成法が詳しく述べられた。

清朝時代

清朝は養蘭が隆盛した時期で、蘭芸はある程度発展して、陳昊子《花鏡》、汪灏《広群芳譜》の中で芸蘭に対して詳しく記載されている。

1805年浙江省嘉興の人で許霄楼の《蘭蕙同心録》は充実しており最も人目を引いた、本の中に蘭蕙の花と伝統名種の素描や挿し絵がある。この本は二巻に分けられ、一卷では蘭の栽培と知識に付いて述べている、二巻では蘭の品種の識別と分類の方法を述べた。全書で57品種を記載し、彼のかいた素描図から付け加えられている。

歴代の蘭譜集に従って新しい園芸の品種が絶えず現れた、多くの豊富な経験を持つ芸蘭家がどっと出てきた、

彼らは先人の経験を総括して、一定の価値をもつ蘭譜を次から次へと書き出した、清朝初期の鮑薇省にあった《芸蘭雑記》の中では、江蘇・浙江の蘭を梅、荷、水仙弁型に分ける事を創始する説を立てた。嘉慶時代の朱克柔《第一香筆記》、屠用宁《蘭蕙鏡》、張光照の《興蘭譜略》、道光の時代の周怡庭《名種冊》、咸豊の初期の孫侍洲《心蘭集》、陳研耕《王者香集》、同治年間の周荷亭《種蘭法》、劉孟詹《芸蘭紀》、余姚黄氏の《蘭蕙説》などの著作が次々と発表された。光緒初年の袁憶江の《蘭言述略》は、一歩進んで浙江、江蘇一帯の蘭蕙の中で梅、荷、水仙、素心弁の園芸の品種を分別し並べた、共に98品種に達する。

その他に杜筱舫《芸蘭四説》、劉文琪《芸蘭譜》、岳梁の《養蘭説》などの著述は諸説を集めて紹介しており、条理に叶ったものである。また冒襄の《蘭言》、汪灏の《広群芳譜》、呉其浚の《植物名実図考》、清朝末期の欧金策の《嶺海蘭言》など、今なお一定の価値があり参考になる。

その後は、香気室主人《芸蘭秘訣》、金石寿《培蘭要則》などがある、これらは方法を編纂していっそう近代化された、前例にしたがって章を分け、諸家の説を解り易く述べている。楊子明の《芸蘭説》は更に北方の芸蘭法則を兼ねて述べた。

近代~現代

中華民国の初期、浙江の杭県の人、呉恩元1923年出版の《蘭蕙小史》は《蘭蕙同心録》を原本として、三巻に分けてその当時の蘭の品種と栽培方法の全面的な紹介を行った、全書に浙江の蘭蕙の161品種を記述した、また江蘇・浙江の蘭蕙の伝承が絶えた銘品の素描と当時旺盛であった品種の写真を付け加えた、しかも正しい蘭蕙の弁型や、栽培管理などを系統的に論述した。これは我が国第一の比較と詳細で、完備した芸蘭の専門書である。

それ以外に、1930年に夏治彬の書いた《種蘭法》、1950年の杭州の姚毓謬、諸友仁が編集した《蘭》、1963年呉応祥などの同志は《蘭花種子繁殖》を発表した、これは我が国で初めて科学理論によって蘭の種を述べたもので、我が国の蘭の有性繁殖の基礎を打ち立てた。1963年に成都の園林局の編纂した《四川の蘭蕙》、1964年産楚江教授は《厦門蘭譜》を編纂した、蘭の形態を初めて科学的な研究を行った論述である。また、1980年呉応様の書いた《蘭花》と1991年に書いた《中国蘭花》がある。

羅士韋教授は当時の国際的先進的な科学法則を参照して、蘭の組織培養の研究を行い実り多い成果を得た、これにより我が国の蘭は無性繁殖の中の分株法以外にまた1歩前進した。この本の作者の沈淵如先生は芸蘭50年余りの中で、芽変りを分離し多くの斬新な園芸変種を作った、例えば双唇の荷花弁素心、梅弁、水仙弁の中から分離された珍しい変種などである、これは我が国の蘭の無性繁殖では初めての試みである。各地の園林の科学研究部門や、野生の蘭の資源を1歩1歩調査し、優良品種を移植して、次第にいくつかの珍しい優良なタイプが出現したのである。

我が国は昔から養蘭事業を行っていたが、旧社会はしばしば戦乱を経験している、またその当時は大部分が少数で封建的な官僚、豪商などの手の中に集中したため、盛んになると独り占めすることもあり、種が散逸する事が非常に多かった。全国の解放後、芸蘭事業は迅速に発展することになった。

台湾の養蘭

我が国の台湾省の自然環境は優良であり、四季の気候はあたたかく、しかも空気は多湿であり、原生品種は非常に多い、したがって、蘭芸も非常に発達している。20世紀初期、日本の芸蘭の人士はしだいに台湾で採集、栽培したものを持っていた。

日本の占領時代の台湾殖産局林業試験所、旧日本東京帝国大学付属植物園に12種類の気生蘭(洋蘭)が導入されていた、その後日本人の米沢氏と中山氏などが提唱し、台湾の自然資源開発に投資した、他にもイギリス、東南アジアと中南米などから各種の優良な品種を導入し、台湾の優良な自然環境を利用し、大量繁殖、品種改良の仕事を進行させた、第2次世界大戦後、台湾の各種の蘭の品種はすでに数百の多さになり(地生蘭類とさらに気生蘭類を含む、多くは気生蘭)、しかも常に多くの新しい改良品種の出現があった。

しかし、現地政権の腐敗のため、品種の損失は甚大で、一度は出現現象に衰退が見られた。今世紀(20世紀)50年代以後、養蘭事業は国際貿易の影響を受けて、徐々に以前の状態を回復することになった。しかも国際交流が頻繁なため、台湾当地の改良品種は徐々に増えて、民間の愛好者も日に日に増えて、季節の品種が常にあって展覧を参観できる。

芸蘭の書籍と雑誌に関して出版が比較的多い。例えば《蘭友》月刊、《現代養蘭学全書》、《士林蘭話》、《蘭》など、そして”蘭友協会”を創立した。いったん台湾が祖国に復帰したら、我が国の豊富な蘭の種質資源を互いに交流することができ、皆で知恵と力を出し合って、これらの古い名花が、ある程度世界の花壇の中で再び異彩を放つことができる。

日本の愛蘭

日本と我が国の縁は近く、中国古代の文化の影響を受けている、したがって蘭芸も非常に発達している。1773年(安永2年)日本人Malsouk(訳註19)は天皇の命により蘭譜を編纂して献上する、これは中国蘭を主としている。

日本の芸蘭界の中で建蘭のいくつかの園芸品種は、秦始皇が徐福に日本に行って長生きする霊薬を求めるように派遣された時に携帯していったと言い伝えられている。

この他、日本の秋蘭と報歳蘭(すなわち墨蘭)の多数の有名品種のいくつかは、書籍の中で我が国から導入したものであることに言及しており、しかも今なお依然としてその原名を維持している。清の光緒年間、我が国の芸蘭の愛好者達が、日本からいくつか品種を導入した、しかし人を引きつける我が国の蘭のような幽香がない。

抗日戦争の前後で、日本の東京の小原栄次郎は我が国の江蘇・浙江の一帯で蘭と蕙の70種を探し集めて、多種を携えて帰り培養した。そして我が国の資料を引用して、《蘭華の解説(栽培法を付け加える)》、《蘭の種類と培養》、《蘭蕙要覧》、《趣味之友》、《蘭華譜》などを編纂し、もっぱら我が国の蘭の専門書を紹介した。同時に、”蘭蕙同好会”、”国香会”、”蘭香愛蘭者組合”を創立して、芸蘭の事業を共同研究する。その秋、国蘭は日本人民の広大な賞賛と好感を得た、そして”文人蘭”を尊重することを薦める。

近代的な日本が養蘭事業に科学的管理を採用した後は非常に速く発展した。蘭芸は弟子が師に大いに優る勢いがある、我が国では多少散逸した種があるが日本は今なお保存して余すところない。ただ我が国で豊富に産出する各種自生蘭は、日本は以前引いていった数十品種の資源だけに限られており、新しい園芸品種は発展していない。

朝鮮方面

朝鮮の方面(訳註20)では、芸蘭は朝鮮人民のあがめ尊ぶ物としてなくてはならい、そして今では蘭は朝鮮人民が高尚かつ上品な花卉とさせて、居室、住まい、役所の広間の中を飾り付ける。蘭は一層称賛され、彼らは一種の高級な贈答品として贈り物にする。

「日本の愛蘭」の中で「日本は以前引いていった数十品種の資源だけに限られており、新しい園芸品種は発展していない。」となっているのは(中国蘭に関する限り)とカッコ付きですが、確かにその通りです。では近年中国においてどのような品種が登録されているのかと言うと、これが実に大量に有ります。中国の「様品目録」では、日本でも栽培されている品種は「老品」として別にリストアップされていますが、その中から「新種」だけを紹介します。

様品目録

新種

梅弁

「梅桃」「余姚第二梅」「矮種園(园)梅」「珍珠翠桃」「新正梅」「角梅」「西神同笑梅」「新崔梅」「胡山梅」「孫梅」「神龍」「盖万字」「舟山梅」「念七梅」「紅跳梅」「鳳翔梅」「新春梅」「芸華梅」「新桃梅」「逢春」「知足素梅」「上品園梅」「大園梅」「初暁」「定新梅」「緑玉」「醉仙」「白舌荷梅」「素梅」「武梅」「西鼎梅」「新華梅」「清源」「滞浦梅」「史安梅」「海晨梅」「飛神梅」「新万字」「金興梅」「華氏梅」「紅集園」「銀辺老十園」「寒露梅」

水仙弁

「陳汪字」「玉琢」「春江桃紅」「彩雲仙」「寧波水仙」「双竜水仙」「珍珠仙」「雲荷仙」「越女」

荷弁

「胡山荷」「七星荷鼎」「紫荷」「西湖荷」「黄氏荷」「大富荷」「貴荷」「紫小荷」「冠荷」「新蘭墅荷」「紫墨荷」「翠碧荷」「興盛荷」「大貴荷」「明州紅荷」「水晶緑荷」「極品秀荷」「天一荷」

素心

「龍岩素」「新荷素」「金罇玉露」「宝荷素」「江南雪」

色線 奇花

「復輪荷蝶」「碧瑶」「緊盖緑蝶」「沐蝶」「金辺玉衣」「玉麒麟」「銀辺玉衣」「五彩飛蝶」「紅大富貴」「陸紅花」「陸黑花」「陸龍草」「金鷹」「彩素蝶」「緑茎」「素蝶」「崔蟾蝶」「佛蘭」「金辺彩梅」「新荷蝶」「玉兔」「仙桃」「金犀」「无捧仙」「西湖蝶」「竹小翠」「碧荷蝶」「蝴蝶龍」「曙光」「新紫蝶」「新荷外蝶」「素荷梅」「同荷蝶」「水晶大富貴」「赤殻素荷蝶」「任紅梅」「天堂宝荷蝶」「越荷蝶」「錢蝶」「素捧蝶」「華美蝶」

蕙蘭(一茎九華)品種目録

新種

「神荷鼎」「彩竅」「祥和」「青雲」「蕙蝶」「新冠蕙」「双奇蝶」「新蕙蕊蝶」「浄素奇花」「色花梅」「外蝶蕙」「西水仙」「翠仙蕙」「皇冠」「翠玉荷」「梅双蝶」「極品稿荷」

連弁蘭

「大雪素」「蓮弁素」「小雪素」「朶素」「通海剣蘭」「朱砂蘭」「墨蘭素」「奇花蓮弁素」

「滇梅(包草)」「蓮后梅」「千禧梅」「滇池梅」「丹心雪梅」「天池梅」「水晶梅」「剣陽蝶」「五彩蝶」「蒼山奇蝶」「桃園三結義」「玉兔」「心心相印」

「紅舌蓮弁(二紅素)」「軍荷」「金沙梅」「剣湖奇」「朱絲連弁」「慶麟一号(蓮弁素)」「慶麟二号(蓮弁素)」「碧龍玉素」「碧玉素」「連弁素」「金荷鼎」「通海剣」「六荷」

 このような新品種はどのような価値基準から選択されたものであるのか気になるので、中国蘭の観賞に付いて書かれた部分を翻訳しました。

国蘭の欣賞(鑑賞)

我が国は蘭の発祥地であり、栽培史は悠久である、株の形が優雅なため、花姿は優美である、葉の態は俗を脱し、幽香は四方にあふれる、ゆえに古代詩人は多くの吟詠を行い画家は筆をふるった。

古来、国蘭の称賛はその気質において重く、歴史の発展に従い品種が増えて、時代によって人々の好みにも変化がある。

観賞の角度から言うならば、人々はそれを”花芸、葉芸と型の芸(矮種の奇葉類)”に分ける、しかし、総じて言えば”香、色、姿、形”の四方面から称賛することができる。

“香”から見る品種の優劣

“香”とは蘭の香気を指す、蘭の香りは陣発性の幽香(微かな香り)に属し、清新かつ深遠であり、時には濃くあるいは薄い事がある。

蘭香は蘭の品種鑑定と評価の優劣の重要な条件の1つである。

清香(すがすがしい香り)は格別によい香りで薄い香より優れる:

濃清香および濃香より清香はよい:

香気の長い間続く者より短い方が好ましい:

香りの無いものは劣る。

蘭香の濃淡は品種および株の充実の状態および日照の長さなどが関係する、育成は光周性によって充足される、温度の比較的高い方が花の香りは濃く、これに反すれば薄い。

蘭香は神秘的で測れないものではなく、前に述べたように、それは蘭花の蕊柱内のエステル腺から揮発性エッセンシャルオイルを分泌しているのだ。

その主要な化学成分は有機物のエステル類と内エステル類、およびテルペン類のアルケンのアルコール、アルケンのアルデヒドとケトン類の混合物で、蘭に香気と香りを持たせる。

“色”には花色と葉色がある

“色”とは、葉の色と花の色を指す。

蘭は碧緑に順じ、玉に似てみずみずしく光沢がありすっきりとしている。

 葉の色と斑紋の変異。

葉の色に金色あるいは銀白色の辺縁、条線、入り乱れた縞模様などが現れたものを、”芸蘭”あるいは”線芸品”と称する。

国蘭の葉芸の変わった花は色々あり、多種多様である、しかし全般的にまとめるなら、覆輪、縞、虎斑、蛇皮の4つに大別される。

もし極稀な”葉芸”として、べっこう斑や、

矢虎斑が出現するならば価格はより高い。

 花色では、伝統の上でスッキリした色(つまり純粋な色)を高級品とする、もし素心の蘭で淡くさっぱりした上品な気質を持つならば、歴代の文人名士が尊重する所である。

繁殖年代がすでに長いため、多数の品種の数量は多くなり、すでに稀少ではない。

蘭の資源に深さを加えて、鮮やかな色と奇花の異種は絶えず大量に出現し、一層のあでやかさが鑑賞する人々の目を奪う、対して、鮮明な或はもっと花色の複雑な鮮やかな色の多彩な珍しい品種に、ピンク色の”桃姫”と彩弁素心の”白玉”の様に、複色花、覆輪色花など、その中でも青色と黄金色は稀少な色である。

“姿”は花の姿と葉姿を指す

蘭葉の密度は独特のおもしろみがあって、しなやかで美しい、同じく適当な柔らかさがあって、あか抜けていて自由自在で、斜めにならないでとても立つもの(即ち剣を待望するもの)は美しい。

近頃、矮葉の蘭葉を鑑賞する、短いことが美しく、ひょろりと高い者は良くない。

70年代の人々はすでに矮種の奇葉品種を発掘した、その代表は短く、珍しく、芸があり三者が全部そろっている貴重な品種だ。――“達摩蘭”、“観音蘭”と“文山佳竜”など、それらは現在、国蘭の中で(1995年まで)売価の最も高い者だ。

蘭を鑑賞する時、葉は短くかつ厚く、葉の表面が平らで滑らかな者は矮種の常品である:

その上にもし葉先が鈍く円いならば、あるいはスプーン状(すなわち兜が起きている)ものは上物だ:

もし葉の表側に脈をさらに加えるならば、粒状あるいは折れた皺に盛り上がる{すなわち蛤蚊(訳註22)の皮あるいは行竜(訳註23)が起きる}のが明らかに高級品である。

更に縞芸の入り乱れた斑紋が現れるものや或はその他に奇花を咲かせるものは貴重な品だ。

 よい花は1本が最も優れていて、ほっそりしている、花茎が葉の表側をぬきんでる者を”出架”と叫ぶ、花数を多く要してバランスがよく、まばらではなくて密ではないものがよい。

“形”は花形と弁形

“形”とは、主に花形と弁形を指す。

花の形に対する称賛、伝統の上で“頂(弁先)が真っ直ぐで肩は平らで、捧心を抱えて締めて、唇を伸ばし鼻を立てる、花弁を後に返さない。”ものが美しい。

即ち“一字肩”と唇舌の広くて短い端正なものは美しい、肩を垂れる者は悪い。

 通常花弁は狭くて長く尖り平らである、つまりいわゆる“竹葉弁”。明清以来、我が国は春蘭が流行して、すでに荷弁、梅弁、水仙弁などを発掘していた、短く、広く、円く、兜の優美な弁型、これらの弁型が現れることは報歳蘭の上で貴重だ。

清朝から中華民国に至る間に発展して弁型は変形した。報歳蘭の花「光蝶」の様に、花の副弁部分が変異し蝶弁に変わった、外見が蝶に似ている蘭を“蝶花”と呼ぶ。その他に報歳蘭の邵氏奇蝶や四季蘭の復興奇蝶の様に、捧心の部分が変異して、蝶弁化したものを“奇蝶”と呼ぶ。これらの蘭は貴重品に属する。

多弁の花で、それが二つの花の体が繋がったもの(双花孖生)、或は多くの花の体が繋がり外弁が多くなったもの(多花共生奇花)、捧心の多いもの、舌の多いもの、鼻柱の多いもの、鼻先が分裂して小弁に変化したもの、或は捧心が巻き縮まって硬化したもの、鼻柱が多くなったもの、花の中に花が有るもの(花中花)など多種の形状がある。

 (双花孖生)では往年の貴重品であった”緑雲”、(多花共生奇花)では”艶蝶”、および花の中に(花中花)では牡丹型の”大屯麒麟”と”瑶池一品”。新しい品種である”瑶池一品”は価格がわりに高い。

近頃また桃の形、翼の形、卵の形、玉かんざしの形・痩せて細い形などの珍しくて新しい弁形が発掘された。それ以外にも、単に珍しい花を好むグロテスクな様相があって、それが美感を持つものでさえあれば、珍しい、影響されない、稀で高価である事の全てに属している。

訳註1 通常中国では東洋蘭とは言わず、国蘭、中国蘭と表記するのが一般的で、稀に東亜蘭と言うことがある。

訳註2 日本では蕙”は蕙蘭を指すが、中国では“一茎九華”を意味する。ちなみに現在の中国における東洋蘭の分類は、春蘭:C.goeringii別名(草蘭、山蘭、朶々香、一茎一花)、春剣蘭:C.longibracteatum、蕙蘭:C.faberi別名(夏蘭、九子蘭、九節蘭、一茎九花)、墨蘭:C.sinense別名(報歳蘭、拝歳蘭、豊歳蘭、献歳蘭)、建蘭:C.ensifolium別名(四季蘭、駿河蘭、秋蕙、秋紅、剣葉蘭)、連弁蘭:C.lianpan、寒蘭:C.kanran、その他、邱北冬蕙蘭:C.quibeienseなど、に分けられるのが一般的である。

訳註3 “芝蘭生幽谷 不以无人而不芳 君子修道立德 不為窮困而改節”

訳註4 《猗蘭操》,孔子所作。孔子譖・ル諸侯,諸侯莫能任。自衛反魯,隱穀之中,見香蘭獨茂,喟然歎曰:‘蘭當為王者香,今乃獨茂,與逵セ草為伍。’乃止車,援琴鼓之,自傷不逢時,託辭於香蘭雲。

訳註5 青木正兒は『中華名物考』「蘭草と蘭花」の中で「秋の七草の一つに數へられるフジバカマは、本草家すなはち藥物學者が謂ふ所の「蘭草」であって、唐代以前の古典に見えてゐる「蘭」とは此の草である」と言っている。藤袴は別名が多く、現代中國では佩蘭と呼ぶ。「佩」は訳註5の屈原『楚辭』「離騒」がその出典と思われる。現在では「蘭操」「蘭草」とは「藤袴」であるとする説が有力である。

訳註6 『離騒』は100行以上に及ぶ定型詩だが原文が参照しているのは以下の4行であると思われる。

屈原『楚辭』「楚辭卷第一」から

扈江離與辟芷兮,紐秋蘭以為佩。
時曖曖其将罷兮,結幽蘭而延佇。
戸服艾以盈要兮,謂幽蘭其不佩。
蘭芷變而不芳兮,荃蕙化而為茅。


訳註7 詞=定型詩?

訳註8 黄磁斗=黄磁の容器?

訳註9 美上=良い土?原文は 詔苑令取滬溪美上為馨烈候擁備之

訳註10 芸蘭=ここでは養蘭の意

訳註11 ささめ=茅に似たしなやかな草

訳註12 干=幹

訳註13 安定=定植?

訳註14 原文は 喜幽惡僻

訳註15 竹方=不明

訳註16 原文は 葉都香=品種名か?

訳註17 原文は 旋=回転する

訳註18 原文と同じ

訳註19 韓国を意味すると思われる

訳註20 一定の間、香りを発する性質

訳註22 不明

訳註23 日本では甲竜

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東洋蘭との出会いから今日へ
渋谷 博

一 ジジパバとの再会

 私は子供の頃から動植物が大好きであった。春先になると庭の飛び石の間に「ジジババ」(方言・日本春蘭のこと)が咲いていたことが今も記憶にある。

 父親の感化を受けているのか、学生時代、中西悟堂先生の「野鳥歳時記」など鳥類に関する書籍をよく読んだもので、暇をみては山歩きをしたことだった。

 結婚生活は大阪ではじまり、柴犬「太郎」を飼い、松やサツキを数鉢作っていた。 昭和四十九年、姫路に転勤。妻と長男、動植物揃っての家移り、昔ながらのおんぼろ宿舎であったが裏庭が広くて太郎はのんびり、妻は草花を沢山作っていた。

 姫路市街の中心地、JR姫路駅前から姫路城方向に広い道路があり、その道路に平行して「みゆき通り」という商店街がある。

 その年の十二月上旬、商店街を歩いていると、あねさんかぶりもんぺ姿のおばちゃん達が竹篭から蘭を取り出し、路上に並べているところに出会わせた。

 一見してジジババである。その瞬間、庭先に咲いていたジジババの花を思い出し、無性に懐かしく感じた。壊かしさのあまり、つい声をかけてしまったのがはじまりで、ジジババと風蘭を買ってしまったのである。

 蘭は全て山採のものばかりで、根を水苔で巻きその上からシュロの毛で覆い、株元をシュロの紐でとくり状に縛り、実に簡素な東洋蘭の風情がある芸術品であった。

 そのおばちゃん達は島根県の人で、毎年十二月になると地方に出て路上で蘭の商をしているとのこと。仲々の商売上手で、私が勤めている職場までやってきて、何入かの職員が蘭を買ってしまったのである。

二 寒蘭との出会い

 昭和五十三年、神戸に転勤となる。ある日のこと、私と同じ課の職員宅を訪ねたときのことである。洋酒棚の上に蘭が飾ってあった。花は清楚で西洋蘭に見られない優美さに感動した。

 これが寒蘭の花であった。土佐出身で裏山に白生していた蘭であるとのこと、詳しく聞こうと思ったが、さほど関心はなく、知識もないようであった。

 その翌日、早々に書店に赴き数冊の本を買った。その数日後には、関西寒蘭会会長の井上降四郎さん宅をお訪ねして入会、私の寒蘭作りがはじまったのである。

 最初は無銘品からはじめたが、高価な上、当地では品種も少なく入手困難であったが、西筥や西灘の交換会会場、阪急梅田の「寿楽園」へと、よく出向いたものである。

 寒蘭を作りはじめの頃から、既に日本春蘭、中国春蘭、一茎九華、エビネ、富貴蘭など東洋蘭全てに興味をもつようになった。富貴蘭では、豆葉、肉厚の兜丸や青海、当時は高価であった鈴虫など特徴のある品が好きで、一時は近畿富貴蘭会にも入会していたことがあった。

 丁度この頃、東洋蘭に知識の高い、東大阪の広橋先生宅によくお邪魔して、春蘭や九華などについて、いろいろと教わったことがあり、円満なお入柄に接したことが忘れられない。

 私の蘭キチは年ごとにエスカレートした。結婚当初からボーナスの大半は私自身の遊交費に遣っていたので、高額の蘭を買っても妻はあまり気にしなかった様子で、友入に「お酒で身体をこわすより健全だわ」と話していたようである。

 寒蘭の入手は、無銘品から命名品へ、新芽の美しい西谷産からはじめた。桃里、桃紅、月宮殿から楊貴妃、日光、豊里へと。特に月宮殿や豊雪は新芽の冴えが格段美しくて印象深い蘭である。

 平成に入り、四国産から九州、紀州産へと栽培を広げていった。日向産では日向ノ誉、緑粋、呑竜から静素、司ノ華、次いで忍者、日向王などチャボ系の花へと。薩摩産では大泉にはじまり白妙、南雪から大雄へ。紀州産では紅花の旭鳳、酔桃等、青花では玉金剛、紀ノ川をはじめ花折産、殿原産の個性の強い花に魅力を感じたのである。

 その酔桃に関しては、牟婁辺愛蘭会の展示会場を見せて頂いたとき、冴えのある濃紫紅の色調は忘れがたいものであった。

三 烏丸(土佐産)のこと

 平成十年ごろ、赤富±(土佐産)を入手したときのことである。妻は「赤富士より鳥丸の方がいいのじゃない」と言葉を返してきたことがあった。その数年後、九州の展示会場で鳥丸の見事な花を見て、遂に鳥丸を買ってしまったのである。病床中の妻に話したところ「今頃になって買ったの」と素っ気ない返事だった。私の感性にあきれたのか、気分がよくなかったのかは疑問であるが……。

 一昨年発行の会誌(素心・31号)に前会長の山内先生が「花」と題して、花を見る美意識・感性について記述され、他界した妻の感性をお褒め下さっている中「東洋蘭愛好者、特に男性は思い込みが強い」と指摘されている。この記事を読んだとき、まるで私自身のことではないかと痛感したことである。

 元来、感性とは生まれながらに持ち合わせている、生来的なもの。それに加え、花に関するより優れた感性は、常に花と接する環境にあり植物に関する学識、円満な性格、等々により養われるものではなかろうか。

四 我が家の蘭舎

 最近、私の蘭舎を訪れた人達が「以前に比べて蘭が貧弱に見えてきた」とよく言われる。その通りで、大株立の木が少なくなり、チャボ様の木が増えてきたからである。

蘭作りの初めの頃は、夢中のあまり、大輪で端正な花に目が向いていたのだが、長年にわたり蘭作りをしている内、その熱も少しはさめ、平静になったことで、個性豊かな花やいろんなタイプの木に口]が届くようになったからであろう。

 しかしながら、棚入れした蘭には、それぞれ入手時の苦労や喜びがあるもの。その中で、日光(土佐産)は姫路に在住されておられる近藤先生が、土佐寒蘭の発展に大きく貢献され、日光の命名者である西内秀太郎さん宅に出向かれ、譲り受けられたものである。また、楊貴妃(土佐産)は私が初めて総合優勝を頂いたもの、豊雪(土佐産)や静素(日向産)も同様である。

鉢数が多くなったことで、幾らか処分したが、そう簡単に手放せるものではない。長年蘭を作ってきて、今日に至って過去を振り返りみると、あまりにも急ぎすぎたことに気づく。今後は「かめ」になり、昔の銘品を大切に作りながら、ここ数年がかりで入手したチャボ様の木や葉性に特徴のある未開花木等々、良花はまず期待できないと思いながらも万が一の夢を追って、のんびり蘭作りに励んでいるこの頃である。

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時空と寒蘭文人作り
森江 潤二

はじめに

 私は、寒蘭から受けた感動をどのように理解すればよいのか、ここ数年考えてきた。ただ自然観だということだけで片付ける訳にはいかなかった。

 三十五~六年間、寒蘭と共に寒蘭から受けた感動を、見知らぬ入にも味わってもらいたいとの気持ちで花を咲かせ、出展してきた。まだまだ十分に感動を与えたとは言えないが、私の蘭入生のげじめとして、今回、生命の始まり、地球の生い立ちにまでさかのぼり、なにか見つかるのではないかとの視点で何冊かの文献を漁ってみた。ある程度の仮説のようなものを頭に置きながら、  "蘭(生命あるものすべて)と人間"、"地球(宇宙)と生命"のかかわりの中から感動の糸を引き出せるかを試みたのである。

 現在の分子生物学、地球物理学といったあらゆる分野の発展は目覚ましく、時々刻々といった感じで人類の英知に驚くほかはない。私の平凡な頭では理解に苦しむことも多々あり、ここに記すのはあくまでも私個入の推測でしかないことを御承知おきの上、読んでいただげたら幸いである。いずれ、もっとスッキリした感動の根源が解る時がくるとは思う。

 今回、三点の新しい知見を得たと思っているが、納得していただけるかどうかは皆さんの御判断にゆだねたい。

生命の根源は一つ

 地球は四十六億年前に太陽系の惑星として生れた。しかし、一代目ではないようある。

 天の川銀河の一員として、銀河の中心から三万光年くらい離れたところに位置しているようである。勿論宇宙の中心でもない。地球ができて生命ができるまでに、八億年ぐらいかかっている。水が残り、海と大陸ができたことが幸いしたようである。大気中には二酸化炭素、窒素、水といった分子があり、海底からはメタン、水素、硫化水素、アンモニアといった物質が吹き出していたが、いずれも数個の原子からなる単純な分子(無機物)である。しかし、太陽からは地球の地磁気が弱かったため、放射線や紫外線が降り注いでいたようである。また、地球が冷えてきたといっても海から水蒸気が上がり雨となり、雷もいまの比ではなかっただろう。大陸に降った雨は二酸化炭素を含み、岩石を浸食し、カルシウムとかマグネシウム、ナトリウムなどの陽イオンとなり、毎の中に入る。こうして、無機物から有機物ができる準備が整い、アミノ酸や糖類(ヌクレオチドの構成要素)が合成されていった。そして十分に濃度が高まってきた頃、さらに複雑な高分子生体有機物(タンパク質や核酸)が合成され、海底の高温高圧の中で金属イオンの触媒作用も加わり、これらの分子が反応を起こしやすい環境の中で生命が誕生した、というのが有力な説となっている。

 生命というのは、外部から何らかの物質を取り入れ、エネルギーを取り出し、新たな物質をつくり出したり運動したりする(代謝)。また、自己と同じものを再生する(生殖)。これらの条件を満たしたものをいう。

 最初の生命は単細胞で、原核生物と分類されている。このドラマが三十八億年前に起こった。これから延々と生物の進化が続き、二十七億年前に光合成をするシアノバクテリア(ラン藻)が出現する。この時期は、地球に地磁気が強まり、放射線が地球にほとんど届かなくなった時期でもあり、浅海に進出し活発に光合成をするシアノバクテリアが栄え始めたのである。二酸化炭素を吸収し水を分解して酸素を放出し、現在も生き続げている。

 その後、DNAが詰まった核が膜で囲まれている真核生物が原核生物から進化し、この真核生物が原核生物のミトコンドリアを取り込み共生する。またその後、植物になる真核生物は葉緑体と共生し、順次多細胞生物へと進化し、有性生殖もこの頃から始まる(八億年ほど前)。

 動物界は、真核生物から原生動物の襟鞭毛虫類から発生したと考えられている。最初に上陸したのは植物のコケ・シダ類で、およそ五億年前である。続いて節足生物、両生類の上陸と続く。上陸までに三十三億年の時間が必要であった。環境が大きな因子であったし、これまでに何回も絶滅の危機もあった。上陸してからも進化を続け、絶滅の危機に何回も遭遇して三十八億年の命を繋いで現在がある。以後の話は紙面の都合上割愛する。

 私がここで言いたいのは、現在の生物の祖先は、すべて共通の祖先(細胞)から誕生したと思われているということである。その一つの、しかし非常に重要な理由は、「DNAからRNAを通って蛋白質をつくる時の基本的メカニズム(具体的にいえば、核酸のどの塩基配列がどの蛋白質のアミノ酸に対応するかということ)が、非常に原始的な生命から人間のような高等生物までに共通だからだ」と説明している。このことは遺伝子の中に共通の遺伝子もあり、私が寒蘭に感動を覚えても不思議ではないと考えられるということである。

 人のゲノム解析が進んでいる。三十億の塩基配列は昨年読み解かれた。この塩基配列の中で、遺伝子は三万数千のようである。そしてこれは、全体の塩基配列の五%にしか過ぎない。遺伝子は蛋白質を作る設計図であるから、この蛋白質の機能の解明、残り九十五%の塩基配列の意味が今後の研究を待たなければならないのであるが、次項で述べる時空だとか、心とか、精神性などの解明が待たれる。

時空とビッグバン

 宇宙の始まりはアインシュタインの特殊相対論、一般相対論、ハッブルの宇宙膨張で大きく進歩した。これらの理論から、ビッグバンが宇宙の始まりと解明された。百三十五億年前から百四十億年前ということである。宇宙膨張から逆算、収縮した一点が宇宙の始まりで、これは私にはなかなか理解できない状況だ。収縮すると、当初のビッグバンの時点は、真空の中で超高密・超高温(何千兆度)という状態。勿論分子も原子も原子核もその状態ではなく、クォーク、素粒子、ニユートリノといった粒子の集まりだったようである。これが一挙に膨張をはじめる。爆発と同じようだが膨張としている。その瞬間から時間と空間ができた。アインシュタインの相対性理論では、この時間と空間は切り離せないということだ。

 ここで私はハッとした。我々生物はすべて体内時計を持っている。体内空間ということを聞いたことがなかったからである。空間を認識する遺伝子も我々にはあるのだということ。アインシュタインはこう書いている。「物理的対象は空間の内にあるのではなく、これらの対象は空間的に広がっているのである。こうして"空虚な空間"という概念はその意味を失う。」

 これをもう少し解りやすくすると、空間の中に物質があるのではない、物質の詰まりぐあいが空間なのである。その空間は空間として単独にはない、空間は時間に連続し、重力の性質をつくっている。重力の分布こそが空間であって時間なのである。

 この理論は一般相対論の一部だが、一般相対論を簡単に言えば、「万有引力が働く理由」を説明した理論で、すべての物体の間には力が働いているという万有引力の法則を提唱しためは十七世紀末のニュートンだが、なぜ離れている物体の間に力が働くのか、その理由は疑問のままだった。それを、物体の周囲の時空がゆがみ、そのゆがみが相手の物体にまで伝わることで万有引力が生じる、と説明したのが一般相対論だ。これから時空は切り離しえないことを説明している。

 話を戻す。ビッグバンから三分後、中性子は陽子と結合し、重水素とかヘリウム四の原子核を作り出した。つまり宇宙空間には、(水素の原子核である)陽子、ヘリウムの原子核そして電子、ニュートリノ、電磁波が飛び回っていた。三十八万年後、温度が三千度(宇宙温度)まで下がった頃になると、電子が陽子やヘリウム原子核に結合、原子が作り出せる状態になった。

 我々の体をつくっている様々な重い元素ができるのは、数億年を要している。これから天体ができる基となるタークマター(質量は通常物質の五倍程度の粒子)が銀河形成の一役を担っている。タークマターの分布は、宇宙初期のかなり早い時期に濃淡がかなりはっきりし、そして夕ークマターの濃い部分に通常の物質が重力により引き付げられることによって、通常物質の濃い部分ができる。そしてその中の各部分でさらに物質が凝縮し、宇宙最初の星が誕生した。ヒソクバンから五億年ほとのことだ。このようにして星の形成と爆発の繰り返し、星内部での元素合成なとがなされ、ピックハンからおよそ九十五億年後、太陽系ができた。

 地球にはいろんな元素が揃っている。揃い過きだという説もあり、そのために]回で出来たのではなく、二~三代目ではないかとも言われている説もある。超スピートではしょってきたが、中性子の質量がもう少し重かったら、現在の我々はなかったとか、太陽の質量が十倍くらい重かったら早く燃え尽きていた、とかいろんな軌跡が重なっている。宇宙形成のシナリオを書くつもりはない。興味ある方はいろんな本が出ているのでこ]読のほとを。刻々と新しい知見が発表されている。

 ここでは時空の話に戻す。私はアインシュタインの時空から、勿論アインシュタインの理論は宇宙観である。しかし、地球も宇宙の一部だから宇宙と一体であるべきだ。我々も宇宙の一部なのだ。宇宙と一体だと思っている。我々は空間の中に物質があると思っていないだろうか。物質の詰まりぐあいが空間だとしたら、我々の遺伝子にも、そのように書き込まれているはずだし、今後も詰まりぐあいの空間が遺伝子に書き込まれていくのではないだろうか。日本人気質もこのようなところから成り立っているのではないかと思う。

 狭い日本、現在の森林の占める割合は六十七%だそうだが、昔はもっと多かったはずだ。山間に家が点在し、田畑があり、神社仏閣があり、小川があり、川が流れ、海にそそぎ、深い森林があり岩山がある。

 日本人が"間"とか"余白"の美を感じる心が、詰まりぐあいの空間にあるのではないだろうか。勿論中国からの文人画、書などの外国から入ってきた美術・文化もあるがこれらも日本入が消化して日本の美術文化となっているわけで、日本入の時空になっている。

 我々は現在、それらを根底から破壊していこうとしているような気がする。コンクリートで囲まれた都市空間がすぐれている文化的生活空間だと考えている入が多いのではないだろうか。;」れからの遺伝子への書き込みはどのように変えられ、その影響がどのように現れてくるのか、もう現れて来ているのかも知れない。

 私が寒蘭から受けた感動は、寒蘭の時空にあったのかも知れないというのが今回のもう一つの感じたことなのである。普通の一般の青花だった。特にどこかに特徴があったわけでもない。文入作りもこの時空に当てはまるし、鉛直(重力で地球中心に向かう直線)線上の花軸の方向性、余白の存在、花の表現、すべて今回の知見に一致していると考えられる。

心と感動

 心と心のふれあいが感動を起こす。これが三点目である。心については現在ゲノム解析により蛋白質の解明がすすめられている。すべての解明が進めば、あるいは解るかも知れない。

 日本入の自然観を考える上で基本的となる事実は、身体語と植物の各部分の名称が見事に一致することである。目=め=芽、鼻=はな=花、歯=は=葉、身=み=実、また「み」の繰り返し形の「みみ」=耳などである。それぞれ漢字は違うが、原初の日本語においては、それは同じ「もの」である。もともと日本人の持っていた植物と入間の同質性の感覚を持って、「古今集」、「万葉集」など抽象的な「心」や「詩」に植物の諸部分、あるいは生育、生成のあり方の名称をイメージして付与したものなのである。その後、宋、元の山水観を取り入れた日本の芸術家(代表として  夢窓疎石、世阿弥)は、原初の自然観、もののあはれの自然観をそれに融合させていった。

 現代科学においても、動物の思考をつかさどる細胞も、植物の思考をつかさどる細胞も、進化の仕方が少し違っただけで、どちらも同じ細胞から出発し、その原点の目的は「生きる方法を考える」というものであろう。だから私は植物にも思考(心)があると思うのだが、入間のものとは進化の仕方が異なっているから、入間を基準に比べたり考えたりしても結論が出るものではないと思っている。

 外国の文献でも、植物には「記憶」が備わっていること、植物の細胞と、情報伝達器としての人間の神経組織には特別なつながりがあるに違いないこと、そして性質のまったく異なった生きた細胞が互いに「理解」し合えるように思われることが発表された。(中略)結局、植物の感受性、すなわち植物が示す「知性」「記憶」は、植物の要求を察して育てる術を知っている真に植物を愛する人々にとっては何も目新しいことではない。(植物の魔術より)  このように、入と植物(寒蘭・あるいは他の生物)は、心と心を通わせ感動を得ることは、不自然なことではない。門外漢には解らないだけかも知れない。

文人作りのすすめ

 これまではしょって書いてきたので、舌足らずな点は感じた入が補い、深めてもらいたい。私の中では、一応の決着をつげたと思って、これからはゆっくりと蘭と暮らしたい。蘭を金儲けにしようとする人には無用の話かもしれない。

 最後に、私の寒蘭文入作りを述べておきたい。"ほったらかし"という話も聞こえてくるが、気にはならない。植え替えて棚に置けば、寒蘭にとっては鉢の中が大地である。花が咲くまで動かさない。よく観察して、水、肥料など生育に必要なものは最小限与え、後は光のとりかた、環境を変えるだけである。

 具体的には、当地では十月からもっとも光を多量に上から入るように環境を変える。そうすると光の強いほうに花軸は上がり、下部で曲がっていても、放物線上に上がり、花軸は結局地球の中心と結ぶ鉛直線状に花開く事になる。これは寒蘭の木自体の健康状態も表す。このやり方で、なお光に向かって上がらないものは、健康状態がよくないと判断してほぼ間違いない。そして蘭花は匂い立つように自己表現をし、時空を表し、心通わせる花となる。

 山水画(水墨画を含む)の基本となる四君子の書き方としても、蘭は曲線の美、竹は直線の美、梅と菊は曲線と直線の美としている。これらも文人たちが臼然を観察した結果からきたものであろう。直幹一本仕立ても否定はしない。これを例えて、格書、文人作りを行・草書としておこう。

 蘭入口が減っている現在、いろんな要因があるが、女性の感性、感性の高い男性など人様々である。咲かせ方も一要因である。私は人に感動を与えうる花を咲かせ、見てもらう道一筋である。



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"日向白竜"という花
中西 昭彦

 日向寒蘭の中に"日向白竜"という素心花がある。私を素心大好き入間にした犯入である。宮崎県尾鈴山系木城町産、昭和四十二年、荒武敦子氏の登録による銘花である。

 正三角形咲きの素心であるが、花弁が透き通るような淡い緑色をしていて中~大輪咲きとなる。株立となって木が大きくなれば大輪のすばらしい花をつげてくれる。葉は緑が濃く、溝が深い立葉である。淡い緑の花とのバランスが何ともいえず、薄暗い場所で咲かせると、まるでそこに妖精が佇んでいるような錯覚を覚える。私が"日向白竜"を愛してやまない理由がそこにある。

 入手したのが昭和五十二年だから二十六年になる。当時は横綱級の素心花として一世を風摩していた賑わいのある花だった。三分の一程先がカットされたバック一本を三十五万円でやっとの思い出入手したが、翌年新子に押し子が出てすぐ元が取れた。それから何度か株分をして、その度に小遣を稼いでくれた孝行息子である。

 最初の頃は、バック木の入手であるので自分の株に花が咲くには時間が必要であった。そこで展示会に出かけては"日向白竜"を見に行った。

 当時は栗原氏が毎年のようにすばらしい花を出しておられた。ある年の県展(地方展の優勝花を集めて宮崎県展が開かれていた)で大株立の"日向白竜"が出展され、確か、内閣総理大臣賞に入賞していた。

 見学の入々の話で、"あれはベンツ一台より高いよ"とか"いくら金を積んでも売る気はないそうだ"といった声が飛んでいたのを今でも覚えている。それは一本当りの木も大きく、大株立に天を突くが如く花軸を上げ十数輪の花をつけていた。

 "日向白竜"もかくあるものか!と、その大迫力に圧倒されたものだった。

 それが現在ではどうかと思うに、関西でも膝元の九州でもすっかり影をひそめてしまった。その名を聞くことがほとんどなくなった。関西で栽培している入があるのだろうか?

 これ程の花が何処なのか? たぶんあまりにも多くの弱点をもっているからではないかと思う。

1、育てにくい。特に小苗はなかなか大きくならない。

但し、木が中以上ならそれ程むずかしくはない。少し肥料に弱い。

2、葉先が痛み易い。二年目ぐらいで黒くなってくる。

3、立葉であるため薮咲きになる。但し、窒素を多目に与えると中立葉ぐらいになって薮咲はかなり解消できる。

4、早咲きである。本花会に出展しにくい。但し花付は良い。

5、多花性であり、花間が短かく、つまって咲いているようになり易い。花軸が伸びる時、水を多目に与えることと、置場を暗くして上方より光をとるようにすると気にならない程度にはなる。

 以上のような弱点は持っているが、透き通るような花弁を持っている花は他に見たことがなく、これのみでも充分その価値がある。

○"日向白龍"か"日向白竜"かという疑問がある。漢和辞典によると、竜はもと龍の古字であり、俗字であったとされている。竜のつく言葉は"画竜点晴" "竜宮" "竜神" "臥竜"等沢山あるが、龍の字が漢字で使用されることはない。文字としては使用されなくなったとは言え、名称となると別である。

 なぜこだわるのか、というと私の手元に二つの資料がある。一つは、昭和四十七年四月発行の宮崎県日向寒蘭登録委員会による日向寒蘭銘鑑抄ー日向日龍と表示。と昭和五十九年八月発行の日向寒蘭宮崎県連合会による日向寒蘭登録品の手びきー[口向白竜と表示。この二つの資料が異っているためである。登録者である荒武敦子氏はすでに亡く、宮崎の古豪に尋ねても登録時のことは今一つはっきりしない。

 個入的には"龍"の字が好きなのだが、文字として使用されることが少ないこと、連合会で登録品の整理をされた時、充分検討された上で"竜"の字を使用され、その後"竜"の字で通されていることから"日向白竜"ということだと思う。

○産地は宮崎県の木城町だが、すでに道路工事で坪は消滅しているそうである。残念なことである。

 坪取りや近くからいくつかの株が採取されているが、葉が細葉で花も小型のものがある。白宝として別抜されているそうだが、それなりにかわらいしい妖精を思わせるものである。

 宮崎県田野町の山取を得意とされている栽培家の棚で1度だけ見たことがある。株分けはしてもらえなかった。

 人々から忘れ去られようとしているかの感のある"日向白竜"である。しかし、その透き通るような花弁をもったこの妖精は、私の棚で今年も大きな新芽を出して元気に育ってくれている。原稿を書いている今(八月十九日)すでに花芽も土の中から覗いてきた。

 寒蘭界の活性化のためには、新しい花が次々に登場してくることが必要だと思う。しかし他方では古い銘花を最高の形で咲かせることも大切だと思う。

 これからも"日向白竜"のもつ弱点を解消しつつ、しばし言葉を失って見とれるぐらいの最高の妖精が我が棚を訪れてくれることを願ってがんばってゆきたいと思う。



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関西寒蘭会会誌編集部