関西寒蘭会第38回本花展優勝花(2008年度)
  • 総合優勝 北薩の誉 永田 光雄
  • 白花優勝 白妙 小杉 裕道
  • 紅花優勝 紅紀州 小杉 裕道
  • 桃花優勝 日光 又川 金仁
  • 黄花優勝 三光 森江 潤二
  • 青々花優勝 青波 宮崎 満
  • 更紗優勝 紀光 小杉 裕道
  • 青花優勝 無銘 森江 潤二
  • 文人作優勝 青玉 宮崎 満
  • チャボ優勝 幸星 宮崎 満
  • 柄物優勝 春光 小森 光彦
  • 交配種優勝 黎山 吉見 勲
  • 晩花会優勝 紅鷲 岡 義信

お蘭さま
会長 渋谷 博

 東洋蘭を愛培して三十余年になる。寒蘭との出会いは、神戸に転勤して間のない頃、同じ課の職員宅を訪れたとき、通された客間に寒蘭が飾ってあった。その時の感動が私の蘭人生の始まりである。早速、関西寒蘭会に入会させてもらった。それ以前の私は、ボーナスの大半が夜の街へと消えていたが、これが蘭の棚入れへと大変心した。妻は「お酒より蘭の方が健康的・・」と話していたようである。

 私の蘭吉は寒蘭だけでなく、春蘭・富貴蘭・長生蘭・エビネ蘭へとエスカレートした。次第に作場が狭くなり宿舎の畳を上げるなどして蘭室に使用した。この頃から発酵肥料にも挑戦、試行錯誤の末に自作の肥料が出来るようになり、益々蘭作に熱中した。蘭に遭遇してから、転勤は蘭作に良くないとして締めたことだったが、同期生が上司として栄転して来ると、自分はこれでいいのかと迷ったこともあった。

 寒蘭を作り始めて十数年のころは、展示会に入賞したい一心であった。八月が来ると、まだ花芽が上っていないのに蘭棚から上作の蘭を選んで葉姿をクロッキーし、その上に理想とする花を描き、蕾が上ってくると図画のとおり花配りをしてみるなど、無我夢中であった。やがて展示会の審査を務めるようになったころ、自分の作品は花と葉そして鉢の調和がよいが、自然観に乏しいと感じるようになった。その後、入賞のための出展は卒業したことで肩の荷がおりると、東洋蘭以外の美術に興味が湧き、生花や茶道、盆栽の世界を覗いてみたい気持になり浅学した。

 老いて今、熱中時代が懐かしい。その域を下って、少しは穏やかな花作りができるようになったかと自惚れている。中国の故事に「蘭に聞いて蘭を養い、蘭を養い蘭に養はる」と名言がある。これは、蘭を愛するものは蘭に教えられる、あくまで謙遜の心をもつことが大切であると説いている。

 妻に先立たれて早くも7年が過ぎたが、現在は多くの蘭友ができ、日々の生活が充実して楽しい。この幸運は、真に蘭作りにより授かった賜物である。お蘭さまに感謝し、蘭人生を歩んでよかったと実感している。

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ランとの出会い
渡辺 交

 私が東洋蘭の世界に入った経緯を書いていきたいと思います。私の出身地は春蘭の本場である茨城県です。家業は稲作農家で、家族の誰かがランを育てているわけでもないのでランを始めたのは私の独断です。

 私は物心付いたときから何かを集めていました。一番最初は貝殻、その次は石集め。熱帯魚やコイン収集にも興味を持ったこともあります。特に石集めは小学校時代最大の趣味でした。石といっても変わった形のいわゆる「水石」ではなく、水晶やアンモナイトといった鉱物や化石を集めていました。博物館へはよく連れて行ってもらいましたし、父の出張のお土産は珍しい石をねだったりしました。一例を挙げると北海道は知る人ぞ知るアンモナイトの産地なのですが、父がそこに出張したときはお土産にアンモナイトの化石をリクエストしたものでした。実は父もコレクターで、石集めもコイン収集も父の影響で始めたものです。

その当時から貫いているこだわりは原石至上主義で、どんなにきれいな石でも磨かれたものは嫌いで、ひたすら原石ばかり集めていました。それも結晶だけごろんと外れたものより母岩にくっついている状態を好んでいました。そしてカットされた宝石は大嫌いでした。仮に当時の私にダイヤモンドの原石をプレゼントした場合、カットせず原石そのままの形で保管するはずです。カットすれば価値が何倍にもなるといわれてもかたくなに拒否するでしょう。

 石集めは幼稚園のときに始まり小学五年までが全盛期でした。実は現在も細々と続いていて、気に入った石があれば購入したりしますが興味の中心は完全にランに取って代わられてしまいました。ランを育て始めたのは小学六年のときですが、いきなりランの世界に入ったわけではなく、食虫植物というクッションをはさみました。

 その頃から街の花屋やホームセンターの店頭に食虫植物が並び始めました。食虫植物の存在は以前から知っていたのですが、自分で育てられるとは夢にも思っていませんでした。そんな植物がお小遣いで買える値段で売っているのですから興奮しました。それからだんだん鉢数は増え、園芸の世界へどっぷりと漬かっていくのでした。

 興味の対象は程なく食虫植物からランへ移りました。サギソウは花が面白いので以前から知っていたのですが、これが食虫植物と同じように栽培できると知ったことが始まりです。サギソウのことを調べるうちに日本の野生ランに興味を持つようになりました。特にフウランを手に入れてからは病気にかかったかのように虜になり(まさにラン熱中症)あっという間に食虫植物は隅に追いやられ、ランが主役となりました。暇させあればランの本を眺め、あこがれのランにため息をついていました。東京ドームで開催される世界ラン展の存在を知ったのはその頃です。

 世界ラン展の存在を知るや否やどんな遊園地をも凌ぐほど私を夢中にさせました。前売りのチケットを買ってからはその日が何よりの楽しみとなりました。当時の私は洋蘭にはまったく興味が無く、ひたすら日本のランばかりを追っていました。なぜかというと洋蘭は派手過ぎて嫌いだったからです。

 初めてのラン展は衝撃の連続でした。まず初めて見る東京ドームの大きさにびっくりしました。そして入場を待つ行列の長さにも。長い時間並んでようやく会場入りし、まず日本大賞(白いパフィオペディラムでした)を目に焼き付けてから販売ブースへと直行しました。販売ブースは満員電車のような混雑振りでした。特に洋蘭のエリアは窒息するのではないかと思うほどに人が多く、興味も無いので早く通り過ぎたいのですがなかなかそうは行きません。どうにか東洋蘭のエリアにたどり着きましたが洋蘭のエリアほどではないにしても人の多さには辟易しました。

そこは夢のような光景でしたが、すぐに難しい問題に直面しました。欲しいものが多すぎてお金がちっとも足りないことです。そのときの所持金は二千円。国産ネジバナの純白花ですら三千円もしていました。安いものもあるのですがせっかくこんな素晴らしいところに来たのにありふれたものを買っていては面白くありません。そこで血眼になって予算の範囲内で最善のものを探しました。そして見つけたのはユウコクランの白散斑縞です。以前からユウコクランの斑入りを探していましたし、一鉢二千円となんとか手が届くことが決め手となりました。そして、来年こそはお金をためてこようと心に決めました。

 中学に上がった翌年、待ちに待った世界ラン展が開催される季節になりました。このとき用意した資金は2万円です。会場に入った瞬間から販売品が気になって、ゆっくり展示品を見ている余裕は無く販売ブースに直行しました。このとき買ったのは日本春蘭の大雪嶺と中国春蘭の大富貴でした。大富貴は中木程度のものを買おうとしましたが、店主に中学生でランに興味があるなんて将来が楽しみだと褒められ、開花株を同じ値段で売ってくれました。

 世界ラン展のインパクトが大きかったせいか、東洋蘭は必ず展示会で買うようになりました。同じ品種でも他の店と比較して買うことが出来るからです。東京ドームの他では上野グリーンクラブで秋に開催される東洋蘭総合展示会へも足を運ぶようになりました。専門店へ出向くようになったのは大学に入ってからのことです。関東には有名な業者がたくさんありますが、ラン展に出していない業者との付き合いはあまりありません。

 中学生の頃の目標は将来、この業界で第一人者になるということでした。しかし、そうなるためには栽培技術の向上だけではなく資金力も必要と分かって気落ちしました。しかしそれは絶対条件ではありません。今は値段の高い品種でもやがて手の届く価格に落ち着いてきますし、安い品種でも丹精こめて育てれば高級品種にも負けない魅力を見せてくれます。私が目指すべき道はそちらであると考えています。

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寒蘭の魅力---民衆の見出した和風の美---
山内 敦人

 敷島のやまと心を人問わば
朝日ににほふ山桜花

 昭和一桁より上の世代にとっては懐かしい、本居宣長の名歌です。花といえば桜。桜の季節になると、しづ心なく浮かれ立つのが日本人です。やまと心を桜で表象し始めたのは平安時代に入ってからで、それ以前の記紀・万葉の世紀では、それほど深い関心を持っていなかった様で、ある人の研究によると、万葉集に登場する花は梅が97萩が94・桜はその半分にも足らぬ36となっています。当時、梅は中国から伝来した植物として珍重されたので、新しい珍奇なものに眼のない日本人らしい結果です。記紀・万葉の世紀は天皇を始め貴族たちは馬を駆って山野を駆け巡った時代です。平安期に入ると屋内に篭り、外出する時も牛車や輿に乗って出かけた時代ですから、貴族達の美的感性・美意識に変化が起こっても不思議ではありません。

 貴族達の感性・美意識が、繊細・優美・優雅になった時、桜の美しさが認識されたように思われます。

 他方民衆にとって桜はどんな存在だったかと言うと、美的な存在と言うよりも、稲作の準備を始めよと言う、生活と密着した存在だったようです。「さくら」という名称の由来は諸説あるようですが、最も有力な説として「さ」は接頭語、「くら」はの憑り代―神霊が仮に宿る場所―で山奥に住まう「田の神」が、山里に降りて稲作の準備を…と告げる合図に桜の花を咲かせたといわれています。民衆にとって桜は宗教性を帯た、生活に密着したもののようで、貴族のそれとは大きな隔たりがあります。現在でも民衆の花見の多くは花を愛でるよりも花を肴に飲めや歌えのドンチャン騒ぎ演ずるのは「根っこ」が美的感性・美意識に基づくものではなく生活感覚から発したものだからかも知れません。

 万葉中抜群の関心を持たれた萩と桜とを比べてみると、萩の方が桜よりも野性的な美を持っているように思います。ひるがえって寒蘭の美を想うと、私の独断ですが桜のそれではなく、その根底に萩に通ずる野性味を持っているように思えます。本居宣長は中国文化の影響を受けず、まだ和風文化の確立していない上古の時代について「なお直くあき明らけく、清らけく。」といった美意識の時代だといっています。この美を具現したのが埴輪の優品だと想われます。

 素朴で飾気なく、ほのぼのとした明るさを持ち、さっぱりと清清しい美といったらいいでしょうか…。私は寒蘭の美は本質において埴輪の優品のように飾らず、ほのぼのとした明るさを持ち、気取らない清清しい美しさを持っているように思えます。そして「直く・明らけく・清らけき美」は民衆の馴染める美のように思えます。桜の美が貴族によって見出された美であるのに対し、寒蘭の美は民衆によって見出された美だと思います。山里の民衆が日常の生活の中で花に関心を抱く人々が、そこはかとなく漂う香りに、葉姿を含めた風姿に魅せられて、自生する蘭の傍らで憩いの一刻を過ごしたり、あるいは身近に持ち帰って楽しんだものでしょう。

 寒蘭の花は細長い薄手の花弁を持っています。細長い薄手の花弁は長からず短からず程よいバランスを保ち、弁元から弁先にかけて流れています。この寒蘭の花の特色が、寒蘭の花の美―端正・優美・清楚さ―をかもし出す極め手になっていると思えます。

 ただ、花の美の一つ・端正さを熟視吟味すれば「襟を正す」といった完璧さはなさそうです。寒蘭の花の端正さは薄手の花弁故に微妙な・ゆ・れがあり、ピシリと決まっておりません。「襟を正す」といった厳しさよりも、洗練された和やかな親しみやすさを持っていると思われます。優美さを具現している桃花でも、桜の花のような優美さではなく、桃に紅と紫をかけた色合いで萩の花のような野性味を含んでいるように思えます。清楚な素心・青花にしても青の中に白黄を含み色の純粋さを欠いており、「目に立ててみる塵もなし」といった完璧さはありません。

 花弁は長からず短からず程よいバランスを保ち、弁元から弁先にかけて流れていると書きましたが程よくであって熟視・吟味すれば、弁元に癖があるものがほとんどで、花弁も中太りし、完璧なバランスを以って流れておりません。茶人の言葉に「唐物荘厳」といいながら「冷えかえる美がある」といって違和感を表明しています。「唐物荘厳」の「荘厳」は「襟を正す」美です。日本人は程のよさ和やかさを愛し「襟を正す」といった厳粛さよりも優しく情緒的なものを好むようです。日本の工芸品を中国のそれと比較すると、完璧さの追及と言った点では全く異質のようです。東アジアのモンスーン地域で海に囲まれた湿潤な気候・風土という自然環境と島国で長い年月同一の種族が共生し、稲作を中心にした集約農業を営んで来た社会環境によって熟成された感性・美意識によるものかも知れません。

 蘭の花は主副三弁が萼に当り、捧心と舌が花に当たります。蘭の花は通常の花とは異なる異形性を持っています。蘭の花の中には異形性を「売り」にしているものが多々あります。洋蘭のシップあたりはこの最たるものでしょう。東洋蘭でも春蘭は見方によってはグロテスクでセクシュアルな捉え方がされ通常の花と異なった異形さを感じさせます。春蘭と比べて寒蘭は細い弁と花弁の薄さによって異形さを感じさせません。元来日本人は個性の際立ったものを忌み、つつましやかなものを好みます。寒蘭は異形さという強烈な個性を巧みに隠しつつましやかな風姿にかえております。

 個性の際立つものを忌むだけでなく、大型のものより小型のものを好み、色彩的にいっても濃厚・華麗なものより淡白で中間色的なものを好みます。寒蘭は「型」と「色彩」からいっても日本人の好みに適合する花です。

 寒蘭の花は多花性の花です。多花性の花は個々の花が相互に影響しあってバランスをとり、ハーモニーをかもし出すことを美の要点とします。花間が注目されるのは当然のことで、花間の整っている花が名花とされています。相互に影響しあうという他者との関係性で言えば、花と花だけではなく複雑・微妙な相互関係性を持っているようです。主副三弁の型、捧心の型、舌の型、舌の色、舌点の打ち方、舌点の色子房の色、子房の長さ、子房の花軸に対する角度、花軸の色、花軸の太さ、これらのものが微妙なバランスをとり、全体としてハーモニーを創出することが美の要点となっています。日本人は個別の存在よりも多様な存在が相互関連性・取り合わせによって全体の美的雰囲気を高めているものを好むようです。本居宣長の歌を見ると「朝日に匂ふ山桜花」とあり「匂ふ」というのは現在では嗅覚にだけ使われますが、古くは相互に影響しあって美的価値を高めることに使われています。「朝日に匂ふ山桜花」は山桜に朝日が映じて一層山桜の美を高めているといっているのです。

 寒蘭の花の美は相互関連性・取り合わせによって匂いあっている美しさだと思われます。寒蘭の花は桜の花よりも萩の花に通ずる野性味を持っているのではと書きました。原種・自然種故に完璧さを具現せず、そこはかとない野性味をただよわしています。日本人は野性味―野趣―素朴な味わい大使、愛着を持ち続けているように思えます。

 陶芸の世界で焼き締め物という釉薬を使わず火と炎によって焼き上げた焼き物の中に美を見出しています。茶道具の多くに焼き締め物が使われています。これは日本人独特の美意識で、焼き締め物は中国朝鮮をはじめ諸外国では原始的な焼き物として雑器としてしか扱っていません。

 寒蘭は本来原種・自然種だと述べたついでに、本題から外れますが原種・自然種の意味について述べたいと思います。原種・自然種ということは交配によって改良された存在と決定的に異なります東洋蘭の洋蘭に対する存在価値は原種・自然種ということにつ盡きるのです。

 日本人は認識において物事の本質的な意味を問うことを等閑視する傾向性が強いように思います。古典園芸といいながら、交配を重ねた存在を見栄えがすればそれで良しとして、受け入れ原種・自然種と交配種との本質的な違いを問おうとはしません。「オモト」の世界がその典型です。寒蘭の世界でも交配種の良花が次々と出現しています。交配種は原種・自然種の未完の部分を修正しようとするものですから、完璧とまでいわなくても、それに近い存在です。見栄えの良さは原種・自然種を凌ぐものがあります。

 日本人は一つの有力な流れが出現すると一気にその方向に流される傾向を持っています。東アジアの門巣本地帯で、同一の種族が長期間、営々として集約的な稲作農業に従事してきた社会環境によって、集団に対する帰属性が強く、集団が支持する風潮に同調し、これに異を唱える存在に対し、客観的・論理的な正当性など考慮せず異端として排除してしまいます。原種・自然種の本質的な意味をしっかりと問い直し完璧なものに違和感を寒鶴日本人本来の美意識を省みる必要が有ります。

 一つの風潮が支配的な位置を占める例が花の咲かせ方にも見られます。現在一般的に行われている花軸を直立させ、花を四方に振り分ける咲かせ方です。この咲かせ方がその花の持ち味から言って最も美的なものはそれでいいのですが、原種・自然種故に花の持ち味は結構多様性を持っています。ですからこの咲かせ方が絶対だということはない筈です。絶対的でないものを絶対視するような風潮に疑念を抱こうとしないから、マンネリ化が生まれるのでしょう。

 それはさておき、話を本題に戻します。日本人の美意識の中に脈々と流れ続けているものに二つの流れがあるように思えます。一つが平安時代に貴族によって確立された桜に表象される優美・優雅な美―王朝の雅―と、もう一つは上古の時代の美―直く・明らけく・清らけき美―埴輪に表象され民衆によって見出された、寒蘭に表象される美です。桜とともに寒蘭もまた、大和心を表象する花でしょう。

 日本人の生活様式は急速に変りつつあります。和風の存在が消えつつあります。しかし、永年の間に培われた、感性・美意識は日本人の体内に流れ続けていると思われます。和風の花・寒蘭は日本人の体内を流れる感性・美意識を呼び覚ます縁になるのではないでしょうか…。

敷島のやまと心を人問わば
山の辺に咲く寒蘭の花

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さじたにばなし
中西 昭彦

 我が家から北上すること約3時間、鳥取県用瀬町の奥に佐治川という渓流がある。年に2~3回渓流釣りに行くところである。 山崎町上ノから細く曲りくねった山道を抜けて千草町に出る。ここのコンビニで弁当と飲み物を用意して身支度を整え、さらに千草スキー場を通り抜けて大茅に出る。この間、山また山の細い山道で、帰りの夜道では鹿、猪、タヌキ,テン等がよく出てくる。時には夜鷹にも出あう。真っ暗な闇の中で車のヘッドライトに浮かび上がる夜鷹は、物の怪が突然目の前を横切ったのかと、しばしばドキッとさせられる。この大茅から鳥取自動車道に乗って一気に用瀬町まで北上する。姫路と鳥取を結ぶこの自動車道はまだ部分開通の状態だが、無料で河原町まで走れる。ほんにトンネルと高架の多い道路で、建設費は膨大なものだろうと思われる。その割には交通量が少なく大層走り易い。なにはともあれ、我ら釣りキチにとっては真にありがたい道路なのである。

 用瀬町の手前で降りてしばらく走ると、いよいよ今日お話しする佐治川に到着である。地図で見ても分かるように、千代川の支流としては最も奥深く、水も豊富で、おおヤマメ、おおイワナのよく釣れる川である。(小生の記録である28・5センチのヤマメも此処で釣れた)。佐治村の役場のある辺りから鳥取の街までは四~五十キロ以上あるのではないか。この話の時代では大いなる田舎であったと思われる。それに山陰地方の冬は厳しくて長い。今と違って雪も多く積もったことだろう。雪に閉じ込められた村人の生活は、其のほとんどが屋内で、時には時間を持て余すような環境であったと思われる。

 そんな中で【佐治谷話】は作者も不明のまま、誰からともなく持ち寄られ、冬の夜長に囲炉裏を囲んで口伝えに伝えられながら、長い年月語り継がれて来たのだろう。約八十~九〇話ぐらいあるそうだ。佐治谷者の遅れを笑い物にする話と、それに反発して利口者をやり込める話が多く見られる。そこには、平地が少なく米作中心ではなく、漆,柿渋、麻、和紙など商品的な生産が中心であり、一方は農業生産者で他方は貨幣経済の担い手である商人との交渉ごとが、他地域に比べて日常多く、田舎者で正直者と算盤片手の利口者というギャップは、話の種を産まずにはおれなかったのでしょう。その中から幾つか紹介してみましょう。

 伊勢参り

 あのなあ。むかし、むかし。
 この佐治の村に佐藤仙兵衛(せんべい)という物知りがあったげな。みんなも村一番の利口者で知恵者だと思っていた。

 ある年のこと、村の伊勢講が始まって、5~6人で講参りすることになったが、世間(しょけん)しのその佐藤仙兵衛が、先達となって村を発った。その日は一先ず鳥取に一服することにした。一行は鳥取の町中をぶらぶら見物して廻った。するとある店先に

 [かがみ、とぎどころ] と、看板が掛っていた。これを見るが早いか仙兵衛さんが
 [此所あなあ、かかあをみとくところだけえ、すぐに見えるだか、どげえなあ一寸隣に聞いて見ゆうかいや]
 かみさんとしばしの別れを惜しむことにしようと、皆に説明しながら、隣の店の入り口の格戸に手をかけた。ふと見ると、なんと、看板がだしてある。
[こと、しゃみせん、ところ] とこう書いてあった。
 仙兵衛さん、しきりに考えて、頷いて居たが、解ったと見えて
 [おい、のしらあ、いけんわいや。ことしゃあみせんとこだって書えとるけえ、しかたがねえ、来年見に来ることにしよういや]
 皆にそう言って、自分も納得して、さらに一行の先頭になって行く内に、大勢の人だかりで賑わっている店先に来た。

 [こんねえは 何にゆうする家だあ、ぼっこうもねえ、賑やけえが]
 そう言いながら、入口の上に揚げてある看板を見た。
 [さとう、せんべい、かしあり] と書いてあった。
しばらくじっと見ていた仙兵衛さん、えらい慌てだした。
 [おい、とに角、うらあ一寸家せえ、帰(い)なにゃあいけんわいや。うらげえが火事だって書えてあるわいや。すまんだけえど、いんで見て来るけえ]
 言ったかと思ったら,大慌てに佐治谷の吾が家をめがけて走って帰えったということである。

 鯛のだし殻

 さてさて、昔々の或るときに

 鳥取の旅宿に、佐治から出てきたというおっつあんが宿をとって泊まっていた。夕方になって、晩御飯の支度に忙しい台所にやってきた。昼前、自分で市場に行って買っておいた大けな鯛を取り出して、汁にしてむらうように頼んだ。
 「うらあ、鯛の吸い物が大好物だけえ、すまんだけえど、これでこしらえちゃむらえめえか」
 「よしよし、上手にしてあげますけえな」
 宿の者も快く鯛の吸い物を作ってやった。ところが、実は初めて食べる鯛とあって、仲々美味いと精出して食べたのは良かったが、どうしたのか、汁ばかり吸っていて鯛の味どこの良いところはみんな箸ではさみ出してしまって、食べようとしない。宿の人達も変に思って聞いてみた。
 「おっつあんよ、おめえはなんで鯛の味どこを捨てて汁だき吸っとんなるでえな?もってえねえがよう」 と言えば、男は「うらげえの親がなあ、どこによばれて行きても吸い物のだし殻は食うむんじゃねえだぜ、って言ってかしとるけ、そいでだし殻ぁ捨ててしまようるだがなあいや。そいだけえ汁だき吸っとりゃあいいだ」   と真顔で話していた。

 さざえ

 今夜はよく冷えるて 外は雪だわ もうそうと火の傍にきなされ

 さて 昔 佐治の至って平穏なのどかな村では、ひょうきん者も、道化者も、そしてスタコイ(狡賢い)者もそれなりに気楽に暮らしていたそうな。

 ある日のこと、少しばかりトンチのきくおやじが鳥取に買い物に出た。ついでに市場の魚屋に寄って、店先に積んであった“さざえ”を少しばかり買った。
 「なんと、うらあこの“さざえ”ちゅうむんをむらったけえど、そん中に詰まっとる腹わたあ、佐治まで帰(いぬ)るにゃあ荷になるけえいらんわいや。すまんけえど、全部抜いて捨ててえてごせんだらあか」
 そう言って、中身を全部抜きださせて銭を払い、殻だけを袋に入れてもらって持ち帰った。

 おかげで魚屋は丸儲けをして
 「佐治の者(むん)は、なんちゅういいきのむんだらあなぁ。さざえの身を知らんだらあやあ」

 それから四~五日経った頃に、そのおやじがまた店にやって来た。
 「今日は“さざえ”をよおけえ買うけえ安うしてごせいや」
 そう言って、店にあるだけ集めてから値切りだした。余り強情に値切るので、店の者も困り果てたが、
 「まあ、どうせこの者(むん)は、この前みちゃあに中身の良いとかあ全部置いとくだけえ、まあいいがなあ。まけたるわいや」

 佐治のおやじの言いなりに、タダのような安い値段にしてしまった。金を払ったおやじは、大けな袋に“さざえ”を残らず入れてしまった。
 「まあ、今日はようけえだし、せえせえに面倒をかけちゃ気の毒だけえ、へえ、腹わたごめに持って帰(いぬ)るわいや」
 そう言って、呆気にとられている店の者を尻目にさっさと帰っていった。市場の魚屋は大損をしたという。

 さてもさて、ここまでようも話を聞いて下されたのう。夜も更けてきたで続きはまた今度にしようわいや。おやすみ!良い夢を!

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関西寒蘭会会誌編集部