―井澤宏常任顧問に訊く― (素心30号掲載記事)

――井澤さんは、関西寒蘭会発会時のメンバーであり、第一回から総務局長をされておられましたので、当時のことをいろいろとお訊きしたいと思っています。

 先ず〝活動記録〟を読んでみますと、次のように書かれています。

「昭和四十六年十一月十四日(日)薄雲、温度適温、風無し
午前十時より二時まで井上氏宅にて寒蘭鑑賞開催」
とあり、二十二点の寒蘭が出品されております。

そして、このような記述があります。
「午後一時より入会した者で発会式を行なふ。
入会者一同の推薦により井上氏会長に就任。
尚引き続き副会長・理事を次の通り決定」とあり

 会長  井上 隆四郎氏
 副会長 岡本 幸夫氏
  〃   和田 実氏
 理事  阪上 弘行氏
  〃  三木 俊一郎氏
  〃  井澤 宏氏
  〃  田中 満雄氏
  〃  原戸 近治氏
  〃  庄野 昌男氏
  〃  庄野 慎介氏
  〃  北添 隆三氏
 顧問  道浦 慧彰氏
という記述になっています。

 このようなメンバーがどのようにして集まったのか、そのへんの事情をお聞かせ下さい。

井澤― 当時、三中同窓であった福留氏が神戸蘭友会の会長代行をしていて、誘われて、岡本氏、三木氏と共に入会し、私は裏方の仕事を手伝わされていました。
(神戸蘭友会は、福留氏の子供の頃からの友達で、企業公論社々長高井章吉氏が実権をにぎっていたと思う)。

花会も終わり、やれやれと思っていた或日、福留氏から、ほんとに蘭の好きな者が集まって、楽しい会を作りたいと、強く言われます。(恐らく、神戸蘭友会に色々不満があったのでしょう。) 私は手っ取り早い、三中同期の岡本氏、三木氏に協力してもらって新しい会をつくる準備をすすめました。

会の中心、会長を誰方になって頂くか、福留氏自身が当然、引受けなければならないのですが、神戸蘭友会とのいきさつ上、表立って会長という訳に行かず、蘭会で古くから高名な井上隆四郎氏に心中で決めていたようです。

井上さんは昭和十四年一月に幽香会を創立し、主宰し、その後、他にももろもろの役をつとめてこられ、昭和四十六年近畿愛蘭会の会長を辞任された頃でありました。
それで私と福留氏と一緒に井上氏宅を訪ね、新しい会の主旨を説明し、会長を引受けて頂く内諾を得ました。

それで、昭和四十六年十一月十四日(日)第一回花会ということになりますが、集まって来た方は、もともと井上隆四郎会長の古くからの蘭友の方々が多かったと思います。

――ありがとうございました。
その後、あくる年の一月二十三日に会合をもたれて総会の日時を決めておられますね。
非常に興味深い記述がありますのでここに写しておきます。

「後、懇談に移り談論風発し、殊に林氏より、吾々は蘭の観賞、培養するのみならず、日本古来の日本のみに生み出された寒蘭を将来如何に保存していくか、守っていくかが吾々の課題であるとの発言あり、
出席者一同大いに共鳴しました。
考えますに、自然保護にもつながり、大いに社会的使命を痛感しました」
とあります。
昭和四十七年にこのような意識をもっておられたことに驚きました。
時代を先取りした考えだと思います。
当時からこのようなことを論じておられたわけですね。

井澤― 寒蘭が非常に少なかった。
そしてお金を出しても、入手が非常にむづかしかったので、そういう気持ちになるのが極く当り前で言った感じです。

なお、棚を見学させてもらって、手で葉をさわる様な人は、二度と見せてもらえなかったでしょう。

――以降 「活動記録」は五十一年まで続いておりますが、話題を創刊号に移したいと思います。

 創刊号を見てみますと、井上会長は勿論のこと西内秀太郎氏、小原秀次郎氏などの大先達が執筆なさっておられますが、このような人達と関西寒蘭会の関係はどうなっていたのですか。

井澤― 井上会長の高名さと、福留氏が意外と筆まめで、あちらこちらに古くからよく文通してましたし、裕福でもあったので、小原氏、西内氏、竹村氏の方々、多数の方の来訪があり、私も事情の許せる時は同席させてもらったことが多々あります。

――また、創刊号から九号まで巻頭を飾る寒蘭のカラーページは全て写真屋でプリントした写真を貼りつけてありますね。これは印刷しなかった理由があるのですか。

井澤― カラー印刷のみならず、活字をひろっていくので、印刷代が非常に高額だった。
カラー印刷を除くだけでかなりのダウンとなりました。

――創刊号から二十九号まで表紙のデザインは全く変わっていません。
無文老師の「素心」の題字と糸平画伯の蘭の絵は格調高いものですが、どのようにしてお二人にお願いされたのですか。

井澤― 岡本さんは、恐らく親の代からと思うが糸平さんと親しく、糸平さんは、ひんぱんに岡本邸へテニスをしに来ていましたし、糸平さんの作品の多くを岡本さんは持っています。
かげのスポンサーだったのではないかと思う、それで自然に山田無門とも親しくなったのだと思います。
因みに糸平さんの作品には殆ど、山田無門さんの讃があります。

――井澤さんの貴重な資料をお借りして、面白い記述がありましたので、是非お訊きしたいのですが……。

四十八年の十一月四日の第三回寒蘭会展の計画書を見ますと、監視係というのがあります。
役割も書いてありまして、「車の到着を待ち、降ろされた品を、搬入の仕事を絶対に手伝わず監視専一とする」とあります。
これはなぜですか。

井澤― 他会でのトラブル等を耳にし、事故のないよう、万全を期しただけです。
一度、事故が起きたら、その時分は蘭を買うことが出来ず、蘭会の消滅につながることになります。
その頃は審査で商人の利益に影響を与えるため、うるさい事ができ、当会でもそれをおさめるのに苦労したことがありました。

――またこの時の審査は無論審査係はいますが、優勝者は「各賞の中から出席者全員の投票により優勝品を決定」とあります。
今と違いますが……。

井澤― その時、会を楽しくするためにしたと思います。会則できめたわけではありません。

――資料の中には寒蘭の価格も書かれています。
四十九年で日光八十万、
糸屋姫百万……
豊雪にいたっては六百万とあります。
高価な蘭を手を入れるのは大変だったでしょう。

井澤― 私の経験で言えば、昭和五十年頃だと思います。
坂本さんに頼んで、高知の西方面宿毛など、二百万持って買いに行きましたが、皆売るとは言わず、これならば売る、と言うのは、皆、小苗の今なら皆枯らしてしまうようなものばかりでした。
無駄使いせずにすみましたけど。

――ありがとうございました。まだまだお訊きしたいことはありますが、紙数の関係でこの辺にしておきます。
 最後に三十年間関西寒蘭会を見守って来られて、今の関西寒蘭会に何かアドバイスなり助言なりをいただきたいのですが……。

井澤― 蘭の価格が下がり、何となく活気がないように思いますが、出品される蘭は作りも良く、立派な花ばかりで、昔なら皆優勝品で、努力して栽培されていると思います。
外見にとらわれず、いつまでも続けていって欲しいと思います。

――それでは最後に資料として井澤さんが大事に持っておられた関西寒蘭会の設立「趣意書」がありますので再掲します。
 関西寒蘭会の原点です。

会員諸氏が発足当時に思いを馳せていただいたら幸甚です。

       

(国政)