2001年度関西寒蘭会花展優勝花
  • 総合優勝 室戸錦 中西 昭彦
  • 白花優勝 大雄 吉見 勲
  • 紅花優勝 紀の赤鶴 小杉 裕道
  • 桃花優勝 日光 宮崎  満
  • 黄花優勝 三光 鎌田徳三郎
  • 更紗優勝 無銘 小杉 裕道
  • 青花優勝 養翠 小杉 裕道
  • 文人優勝 南雪 岩本 孝之
  • チャボ優勝 無銘 宮崎  満

東洋蘭史考(後編)---韓国の養蘭史---
野口 眞人

一方、韓国における東洋蘭史はどうなっているのか気になる所ですが、インターネットで友好関係にある韓国「ランマウル」から、歴史記述部分を翻訳しました。(韓国語は読めませんので韓国の方に翻訳して貰ったものを機械翻訳したものと比較しながら日本語化しました)

わが国の蘭の歴史と展望

わが国の文献では、統一新羅(676~935)の孤雲(ゴフン)崔致遠(チェチウオン:857~?)の文章で蘭という文字を見ることができる。“夫人徳芳蘭蕙 禮潔 繁 遽失所天加没干地……”(夫人の徳は蘭蕙の如くに香り、礼儀はすっきりして頻繁(蛙飯と生の白い蓬)のように素朴で慎ましいが、突然夫を失ったこの地にすっかり馴染み、死んだかのようである……)これは、王妃の徳を蘭蕙に比喩した、文字として発見されたものでは最も古い文章といえる。また、孤雲の他の九龍、澡洗(訓蒙下11)にも蘭という文字を探すことが出来るし、高麗時代には李奎報(リキュボ:1168~1241)、李穀(1298~1351)、鄭夢周(ジョンモンジュ:1337~1392)等多くの文人らの文章に現れている。

傲雪蘭
彈入宣尼操
爲大夫佩
十董当一蘭
所以復見受

孔子が琴(ゴムンゴ)に蘭操をのせ、大夫の牌に蘭を刻む
蘭一輪が熱を受けている、その姿を見直し愛する

傲雪蘭を詠い忠節を表したのは死六臣の一人である成三問で、朝鮮時代へ入っても蘭は高い格式で詠われ、梅窓(メチァング:1573~1610)や蘭雪軒(ナンソルホン:1563~1589)などの女流詩人たちは勿論、休靜(フュチョン:1520~1604)、惟政(ユチョン:1544~1610)などの高僧達の作品にも蘭は普通に見られる。

墨蘭は、高麗末に玉瑞?(オックソチム)と尹三山(ユンサムサン)が書いたのが最も古い記録として現存する。最高品は、朝鮮先祖時代の李澄(イジング)が書いた春蘭図である。特に朝鮮末の金正喜(1789~1856)と大院君李是應(リハウン:1821~1898)、閔泳翊(ミンヨンイク:1860~1914)などが有名であり 蘭に関する説明が入っている文献としては世宗31年の1449年に刊行された姜希顔(カンヒアン)の養花小録が最古のものとして上げられる。

本國蘭蕙品類不多
移盆後葉漸短香亦劣殊
失國香之義
故看花者不甚相?
然生湖南沿海諸山者品佳
霜後勿傷垂帶
舊土依古方截盆爲妙

わが国では蘭蕙の種類が多くない 小分けし移した後葉が少しずつ短くなり香も極めて弱いので わが国香の意味を失うのである だから花を見たもの印象は薄いのである しかし湖南沿海のあちこちの山に生えているその品種は美しい 霜が降った後根が傷まない様に 自生地の土で囲み昔の方式に従って鉢に植えると良い

この記述から15世紀には、既に中国蘭が知られているのは勿論のこと 韓国春蘭も発見され育てていた事が分かる。

続いて「新增東国與地勝藍」「大東韻府群玉」「山林経済」「林園十六志」などかなりの文献から蘭に関する記録が見られる。特に、申景濬(1715~1781)の旅菴遺稿には、“我国済州獨有蕙…”と蘭の記録が見られるが、ここでの蕙とは 当時の一莖多花を指す用語で寒蘭を指摘するものとして見られる。その後寒蘭は金正喜の「秋史」によりやっと陸地までその名が広く知られた品種である。

このように蘭に関する詩文、墨蘭図の文献は多いが、広く知られ保存されたとはいえない。一部の知識層に限定されていたようで、それも多くは観念的である。ただ蘭という言葉が知られていたのだ。更に韓国春蘭は、香を重要視する中国風鑑賞法が浸透した知識層にあっては、養花小録の説明にも関わらずその関心は微弱であった。

韓国春蘭が人々に広く知られ始めった時期は、1970年代後半に入ってからである。小数特権階層によって動き出した蘭の趣味的輸入が自由化され広く拡散し始めた。蘭に関する認識が変わって、多くの人々の識別眼が高くなるにつれて、愛蘭家たちはわが国のものを探し始めた。韓国春蘭は元来緑色の葉と緑色の花だが、わが国のものに対する愛着から、少しずつ赤花、黄花、朱金花などの色花と、覆輪中透け縞など葉が変異する様子が現れており、大半の花芸品と葉芸品が網羅的に発見された。

今は、蘭文化、蘭界という言葉が頻繁に登場するほど広がり、同好者も増加した。火が付いた韓国春蘭ブームは我々の蘭という自負心を高めてくれたし、他の国にも立ち遅れていない。端雅な姿は、愛蘭家たちを満足させるに充分のものであった。

花色や模様が徐々に固定されるにつれて、韓国春蘭は我が蘭界に根をおろした。短い間に韓国春蘭がこのように早いスピードで発展し愛される原因はつぎの通である。

1:韓国春蘭の資質で何処に出しても遜色ない程の優秀な品質が多い。

2:韓国人の美意識の発展で、観賞能力のある愛蘭家が多くなった。

3:愛蘭家の増加による採種人の増加と、わが国の蘭に対する関心が高まった。

4:趣味、愛蘭家達による同好会の結成が盛んになり、蘭開発に拍車が加わった。

5:展示会が活発になり、情報交換および蘭の固定培養に力を注いた。

6:蘭専門賞を設け、優秀品種の蘭を普及培養させるのに大きな力となった。

7:蘭専門雑誌などを通じて活発な情報交換が、蘭界の発展を一層加速化させた。

古より民族と共にわが国に自生して来た韓国春蘭は、素朴な姿にその端雅な姿態が、ようやく私達の身近になってきた。蘭を身近に感じるまえは、他の草と変わらない草本植物に過ぎなかった。しかし、蘭を身近に接すれば蘭の変化に魅了されてしまう。美の感覚が発達すればするほど、その美しさで世界の共通語になるのがこの蘭である。韓国蘭開発10年で立派な資質の蘭が多く出てきたのは、我が蘭界においても満足いくものと考えられる。多くの同好者たちが増えており、培養へ最善をつくす培養家もふえた。未だ固定されてない品種たちが固定化を待っている視点から、我が蘭界の課題はこのような韓国春蘭を園芸化させ固定化させるところにあると言える。その可能性は無限で、今日まで発展してきた韓国蘭界の喜びに勝る発展が期待されその喜びも大きい。

月刊 蘭と生活社刊「東洋蘭」から

さて我が日本はというと、残念ながら「東洋蘭史」は存在しません。古典園芸と言われるものは江戸時代前期の元禄時代には存在した様ですが、春蘭、寒蘭の栽培に付いては記述が無いようです。これは推測ですが、早くても南画などの中国文化が流行った江戸中期の文化文政時代(1793~1841)までは、庶民がその存在を知る事も無かったのだと思います。

 

 

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公文狐の雑貨屋さん
中西 昭彦

寒蘭と渓流釣り

 これから、最近私が体験した不思議な話をしてゆくつもりですが、その前に、なぜこのような体験をすることが出来たのか、そこから話をはじめたいと思います。

 この出会いは渓流釣りをしていたときのことです。ヤマメやイワナ釣りが趣味で、毎週のように兵庫県の揖保川や鳥取県の千代川の源流近くまで釣行しています。渓流釣りが趣味となったのは、宮崎に在住していたときに寒閲が趣味となったのと同じ時期です。一入の寒蘭愛好家から一鉢の寒蘭を貰ったのがきっかけで、すっかり寒蘭にはまってしまいましたが、その入が渓流釣りも趣味であったのと、寒蘭を求めてあちこちうろつくうちに別の趣味家とも知り合いになり、その入からヤマメ釣りの秘密のポイントを教えられ、以来渓流釣りの虜になってしまったのです。

 寒蘭も渓流釣りも私の入生に様々な入々との出会いと、すばらしい彩を与えてくれました。そのお蔭でリタイヤした今でも新しい人との出会いと、自分一入では到底経験出来そうもない、楽しい日々を送ることが出来るようになりました。

ヤマメとイワナ

 兵庫県は、南を瀬戸内海、北を日本海と、異なる二つの海に接する数少ない県の一つです。昔は瀬戸内海に流れる川にはヤマメが、日本海に流れる川にはイワナが棲むと三口われたそうですが、今では放流が進みどちらの川にもヤマメもイワナもおります。イワナのほうが水温の低い上流域に、ヤマメはその下流域にいますが、それでも水温十五度以上になると棲みずらいらしく、夏になるとさらに上流に移動します。我々釣り師もそれにつられてより上流域を釣り歩く、ということになります。そのため源流近くまで釣りに行くことも珍しくありません。

 上流に行くに従い渓は険しく、木々は生い茂り、人里からは遠く離れ、聴こえるのは谷川のせせらぎと小鳥の声のみ、時折聞こえる虫の鳴き声の中に、熊の鼻息や枯葉を踏む足音が混ざっていないかと気を配りつつ、ただひたすらにヤマメやイワナの姿を求めて上流へと分け入ってゆきます。

 途中で水量の多い溜りや瀬があると、そこは大物のヤマメやイワナの潜んでいる絶好のポイント、魚たちに気付かれないようにそっと糸をたらして見ます。目印をつけた糸がわずかでも不自然な動きをしたら、それがアタリ、すばやくあわせます。その間わずかO・三秒、特にヤマメは俊敏で口に入れた餌がおかしいと感じた瞬間に吐き出してしまいます。少しでも姿を見せたり、一度釣り損なうともう釣れません。卦けた瞬間、川魚の女王と言われるあの美しいバールマークの入った銀鱗を輝かせて、水中でグラグラと暴れられるともうたまりません。大物はめったに釣れないからこそ、釣れたときの喜びも大きいのです。そして何よりもおいしい空気と美しい渓流の眺めが満喫できるのがこの釣りです。

 熊のはなしを一言。(ベテランの猟師さんの話として)兵庫県に生息している熊はツキノワグマですが、彼らは入間を餌とは認識していないそうです。そのため余程ばったり出くわさない限り、人を襲うということはないそうです。ヒグマは入を襲うそうです。私はまだ幸いにもそのどちらにも山の中で出会ったことはありません。生息数もかなり減少したようで、兵庫県では熊を殺すことは禁じられています(肉は猪よりはるかにおいしいそうです)。

 それからもう一つ"マムシ"が時々出てきます。頭が三角で、体の中央部に妙な模様があり、地面にピッタと伏せるようにして鎌首を五~十センチ上げている蛇がいたら、それがマムシです。赤マムシと黒マムシがいます。赤マムシは少なく、精力剤として効能が高いため、黒マムシの五~六倍で取引されます。長靴を履いていれば大丈夫、くるぶしより上に噛み付いてくることはまずありません。

三方町

 兵庫県の中央部より少し南に下がった所に三方町というところがあります。平成十七年四月より宍粟市一宮町三方町(まち)となったところです。

 姫路駅から国道29号線を北上、一宮市民局前を通過、安積橋交差点を右にとって約六十キロ、一時間二十分の道程です。ソウメンの揖保の糸や鶴の糸の生産地であり、国の重要文化財である御形神社(一五二七年建立、室町時代後期の見事な彫刻や繊細な組物が復元されている)や家原遺跡公園(竪穴住居と鎌倉時代初期の建物が復元されている)などがあり、かつては鉄の集積流通の要衝の地として栄えた歴史あるところです。江戸時代は三方村と呼び天領でした。

千年水

 そこからさらに公文川(くもんがわ)に沿って五~六キロ杉林の間を縫うようにして上ってゆくと、"一宮名水七選"の一つの"千年水"という湧き水があります。よく知られているようで、次々に人が訪れては水を汲んでゆきます。

 昔は鉄や材木を運ぶ人々や、但馬からの旅入たちが、オアシスとしてこの湧き水を利用したに違いありません。

 さらに○・五キロ行くと小さな橋に出会います。小さいけど山奥にかけられた橋としてはしっかりとした橋で名前を大橋と言います。左にとって行くと五軒ほどの溝谷と言う集落へ、右にとってその橋を渡ってさらに上ってゆくと小原(おばら)という十軒ばかりの集落へ入ってゆきます。

 過疎化が進み空き家も目に付きます。今でも五十センチぐらいの積雪が一冬に何度かあると言いますから、その昔はもっと一メートルを越える雪が降ったのではないでしょうか。そんな中でどんな生活が営まれたのか、疑問は尽きません。

 両側から迫ってくる杉の木の暑苦しそうな呼吸が、蝉時雨の間から聞こえてきそうな、そんな暑い夏のある昼下がり、私はこの橋の上でじっと川の溜まりを見つめていました。この橋より上流にはヤマメの大物がいると、地元の釣りキチから聞いていたからです。すると突然ザァと夕立がしてきました。今晴れていたのにこの雨、慌ててカッパを出してきて頭からスッポリとかぶり、しばらく様子を見ていると、やがて雨は上がりました。こんな事が夕方まで何度か繰り返しありました。昔の人はこれを"狐の嫁入り"と呼んだそうです。

木地師

 釣り始めましたが期待とは裏腹に十センチ足らずの小物が数匹来たのみです。さらに上流を目指して上ってゆくと、突然目の前が開けて数軒の集落が口]に飛び込んできました。こんな山奥に入家があるとは思いもしなかったのでびっくりしました。小原と言う集落です。平家の落人の里とも言われており、その九割が小椋姓で、昔は木地師として生計を立てていたそうです。

 木地師とは轤轤(ろくろ)と呼ばれる回転機械を使って椀・盆・鉢などの容器や、杓子などを製作した職人集団のことを言います。彼らは近江国小倉郷(現・滋賀県東近江市)を故郷とし、原材料の欅(けやき)・ブナ・トチなどを求めて全国の山林地帯を移動する[山の民]であったと言われています。小椋郷の支配所を中心とする特徴的な統制の下にあったことも知られています(宍粟市歴史資料館)。里で農業をしていた入々に比べて現金収入が多く、山奥で暮らしていたにしては結構裕福な暮らしぶりであったと思われます。

 大物が釣れないままその集落を通り過ぎ、さらに奥へと分け入ってゆくと、公文川と志倉川の源流の分かれ道に行き当たりました。左を取ると公文川の源流です。三十メートルほど行くと、最奥地の一軒だったと思われる廃屋があり、なんとなく不気味さを感じさせます。この家が廃屋となったことで、これ以上奥で何かあっても永遠に誰も助けに来てくれない、それよりひょっとしたらここに物の怪が住み着いているかもしれない、そんな不気味さです。

公文狐

 その道をしばらく登ってゆくと、右手の山際に少し広くて平らなところがあります。昔の屋敷跡らしく入の手で積まれた石垣らしきものが草むらの中からかすかに見えています。かってそこには、赤いトタン屋根の入母屋造りの母屋と納屋が建っていたそうです。ここには、猟師仲間で密に語り継がれている次のような物語があります。 [一人の猟師が猪猟に出かけて道に迷ってしまいました。仲間ともはぐれて散々迷った挙句、偶然にこの家にたどり着きました。ホッとして入り口のドアを叩くと、中からそれとなく気品を漂わせた三十歳過ぎと思しき婦入が出てきました。着ているものは絣のもんぺに手ぬぐいと、いかにも質素な身なりながら、小柄でほっそりした体にとてもよく似合っています。猟師は目の前に立っている婦入に思わず、"ああ! 貴女はなんという美しい入だ。こんな山奥でこのような美人に会えるとは!"と思わず感嘆の声をあげていました。それを聞いた婦人はにっこり笑って"どうぞ"と丁寧に家の中に招き入れてくれました。そして熱い風呂を沸かしてくれたり、夕飯をご馳走してくれ、お酒まで振舞ってくれました。"夜の山道は危ないから、今夜は遠慮なく泊まっていってください"としきりに勧められるままに、ついつい酒をすごしてしまいました。山道を歩き回った疲れに程よい酒ですっかりくつろいだ猟師は、"私にも一杯下さいな"と、いつの間にかそっとそばに寄り添ってきた婦人の、白いうなじに掛かる黒髪に思わずゴクリと生唾を飲み込みながら、震える手でお酌をしてやりました。注がれたお酒は半分も婦人の口には入りませんでした。その前に二入は……。静かに公文川源流の夜は更けてゆくのでした。

 翌朝、小鳥の声で目を覚ました猟師は、丁寧に婦入にお礼を言って山を降りてゆきました。彼は再びこの山に登ってくることはありませんでした、二十年経った今日という日が来るまで……。彼の息子が恋入だと言って連れてきた娘の母親に会ったとたんに、二十年前を思い出したのです。

 それからは誰言うとはなしに、猟師と情を交わした公文狐が、猟師を恋し慕い、ついには本物の人間になって猟師に会いに来た、それも美しく成長した娘を伴って。]

狐の雑貨屋さん

 これ以上上流に行く気になれず、元来た道に引き返し源流の分かれ道まで戻ってきました。"ゆずりは 雑貨.手造りのお店"と読み取れます。まさか! こんな山奥に店などあるはずがない11一人っ子一人いないところで!そう思いつつ、興味津々、日はまだ高い、ともかく行ってみるべし。

 背丈より高い萱を掻き分げながら進むことしばし、途中の道端に数体の苔むした墓石が並んでいるのに気がつきました。いずれも大き目の白然石に戒名と没年月日を掘り込んでありますがよく読み取れません。おそらく木地師たちの墓だろうと思いますが、誰もお参りをした様子はなく長年放置されたままです。死者の魂達はここを通る入々をどんな思いで見つめているのでしょう。はるか昔に途絶えこの地に埋葬された入々のことを思いつつ、さらに奥へと歩みを進めると、ついに看板どおりの雑貨屋さんを見つげました。

 わずかに開けた斜面地の前を志倉川源流の清流が流れ、そこに車]台がやっと通れる簡素な橋が掛かっています。ひ弱そうな欄工ーの横に"ゆずりは"の文字と"商い中"の旗が見えます。蜘蛛の巣を払いのけながらその橋を渡ると、左右が少し広くなっていて車が何台か止められるようになっています。その向こうに廃屋らしきトタン屋根の建物が三棟、その横に納屋と周りを木々に囲まれた十坪ほどの庵らしき平屋が一棟、屋根が見え隠れしているこの家がどうやら"ゆずりは"らしい。

 車を止めると一頭の老犬がヒョコヒョコやってきました。その後ろから犬の名前を呼びながら出てきた婦人が店主のようです。三棟の廃屋のうち手前の棟は空き家でその後ろが住居らしい。きれいに手入れされた犬といい、いかにもセンスのよさそうなこの貴婦入を見たとき、私の足はふと止まった。長年山の中の暮らしをしてきた入ではない違和感を覚えました。この入何者? それとも物の怪?……。にっこり笑って"どうぞ"と丁寧に招き入れてもらったところで、ふと公文狐の話を思い出していました。もしかして狐のやつ田舎のおばさんに化ける犬老れわ養に狐文公ところをうっかり都会の貴婦入に化けそこなったのではないか、いやきっとそうだ。この店主はどうやら貴婦入に化けた狐に違いない。

 その証拠に、第→に猟師や釣り入、山仕事の入さえめったに来ない、これ以上奥には入の住む家など一軒もなく、昼なお暗き深山がどこまでもつづいている山奥で、人間相手に店を出しているとは到底考えられない。山の獣達が客なのであろう。犬は狐が手なずけたに違いない。

 第二に店内はきれいで品数もそこそこ、なんとなく繁盛しているような雰囲気がある。ここに入間のお客様はありますか? とたずねてみた。そしたら狐の貴婦入は怒りもせず"今日は貴方で三入目です"という。しばし次の三口葉が出てこなかった。それでは今日は三度も狐から貴婦人に化け直していたのか。さぞ忙しい一日だったに違いない。……でも今日は月曜日だけど? そう心の中で呟きながら店内を見回した。小さな焼き物の入形、蜂蜜、石鹸、ブリキ造りの小物などが所狭しときれいに並べられている。きれい好きの狐らしい。

 第三に、その美しき貴婦人が自らが語ったところによると、来訪者はその多くが狸やテン、鹿、猪、時には、姿は見せないが熊が足跡を残してゆくという。

 突然に一輪車を押して現れた入を、"友達と一緒にやっています"と紹介されたのだが、この店に二入の店員は要らないでしょう。それにしても狐の世界にも"友達"と言う三口葉があるらしい。エプロン掛けに長靴姿ときめ細かい化け方をした狐さんではあるが、二入、いや二匹とも実に楽しそうでした。

 何とか正体を見極めようと一時間ほど雑談をしてみましたが、ついに尻尾は見つかりませんでした。あきらめて"トチの花の蜂蜜"を→五〇〇円で買うと、豆乳石鹸を一個サービスしてもらった上に、おいしいコーヒーをご馳走になりました。雨にぬれ、渓流を歩いて疲れた体には暖かいコーヒーは何よりのご馳走でした。おまけに帰り際に"主人が掘った池に川で取ってきたヤマメを鯉の餌で育ててあります。あまり釣れなかったようだから、ここで釣っていかれてはどうですか"と勧められました。さすがにこれは断ってきましたが、深山の奥深くでこのような暖かいもてなしを受けようとは、未だ夢から覚めやらぬ思いです。

 "トチの花の蜂蜜"は純粋な蜂蜜でこくがあってとってもおいしかったです。入の手が入ると砂糖や水あめが混入されてただ甘いだけですが、これは本物でした。まるで入間の世界での足し算・引き算が出来ていない、やはりかの貴婦人達は公文狐に違いないと思うのです。



 

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発酵肥料の作り方について
渋谷 博

はじめに

 私が肥料を作りはじめたのは、記録ノートをみると、昭和五十八年からである。最初は大先輩K先生から教わったもので、水がめの中へ油カス、骨粉、魚粉などを入れ、水をそそいで密閉する作り方であるが、数日後には強烈な悪臭がして、発酵ではなく腐敗したもので、処分するのに困ったことだった。
 その後、肥料作りについて、いろんな資料を参考に学んだが、大量の材料を基準とした農作物用の肥料作りで、少量作には適せず、満足する肥料はできなかった。
 暗中模索の末、資料を基にやっと肥料らしいものができはじめたのは、平成五年頃からである。
 その作り方は、好気的分解による発酵肥料である。そこで、その資料「発酵菌活動の基本」を要約して記し、次いで私の肥料作りを紹介します。

一 肥料作りの時期と作場

発酵の段階で、最初に活動をはじめるのが、こうじ菌である。こうじ菌の発育温度は、30℃から40℃、夏であるが、この時期は多くの細菌が繁殖旺盛で、逆にこうじ菌の活動を押え不良となる。即ち、酒作りと同じで、冬の低温期に作るのが最適なのである。
 作場については、木造で土間のある納屋、南側に家屋があり、日当りがない作場が理想である。
 私の作場は、残念なことに、トタン屋根の簡易倉庫である。幸い南側に二階建ての民家があり、日が当らないので良しと思っている。

二 発酵菌活動の基本(研究資料から)

1 材料の種類と数量
 ①第一混合材料(水分30~40%)
   米ぬか 200㎏
   落葉 20㎏
   コーラン 10㎏
②第二混合材料(水分50~60%)
   菜種油かす 600㎏
   魚粉 80㎏
   骨粉 40㎏
   カニガラ 20㎏
   大豆かす 40㎏
なお、材料の混合撹拌及び堆積方法は後記のとおりで省略する。

2 こうじ菌の活動(第一発酵段階)
①材料堆積後、二~三日で発熱、中心部の温度が45℃に上昇すると、こうじ菌の活動がはじまる。
②50℃に上昇、こうじ菌の活動は鈍る。
③堆積後、二十五日前後で70℃に上昇、材料は糊化が進み、糖化作用がはじまる。
④材料の表面に綿毛状の菌(コロニー)が形成、この時期に散水撹拌、こうじ菌の香りが漂う。

3 納豆菌の活動(第二発酵段階)
⑤温度の低下がはじまりジ50℃を割るとタンパク質分解作用がはじまり、納豆菌が増殖、PHは中性からアルカリ性に移行する。
⑥二~三回撹拌、綿毛状の菌は消えアミノ酸の臭いがする。

4 乳酸菌の活動(第二発酵段階後期)
⑦温度の低下が進む、30℃~40℃になると乳酸菌の活動がはじまる。乳酸菌を添加し発行の促進を図る。
⑧内部はサラサラ感、撹拌を繰り返す。暗褐色、アミノ酸の臭いが強くなる。
⑨PHが低下、アルカリ性から酸性に移行、細菌は死滅し、雑菌の侵入を防ぐ。
5 酵母菌の活動(第三発酵段階)
⑩30℃以下になると酵母菌が発生、酵母菌、過石、山土、硫安を混合撹拌する。
⑪材料混合を機に、温度が再上昇しやすく、上昇すると第二段階に逆行するので、頻回撹拌する。
⑫温度が低下し常温近くになると、野球ボール大の白い菌の塊が見られ、撹拌二~三回すると乾燥し、白黒色まじりの発酵肥料が完成する。
[参考]
前記の肥料作りは、農作物用肥料として大量の材料を基準に示したものである。従って、少量の肥料作りの場合、発酵[口数も異なること、発酵に適さない材料もあることを認識しておくべきである。

三 私の肥料作り(平成十二年肥料作り記録から)

1 図と写真の説明
図示④=容器に材料を堆積した状態
写真①=肥料容器(プラスチック製・30追)、撹拌用スコップ、コモ
写真②=作業用容器と発酵補助剤
写真③=右上から稲ワラ、コモ、左上から落葉(けやき葉)、完成肥料、覆ネット
写真④=完成肥料(十二年製作)
2 作業準備
作業の前日に、大豆、落葉、カニガラを個々、別容器に水に浸し、翌朝ジューサーにかけ、液状にして個々に取り置く。

3 材料の種類と数量
①第一材料
  米ぬか 1.5kg
  落葉 若干
  こうじ 100g
  コーラン 100g
②第二材料
油かす 2㎏
骨粉 2㎏
大豆 200g
カニガラ 50g
③その他の材料 過石、黒土、熔燐(草木灰)、稲ワラ


4 肥料作りの容器(写真①参照)
30リットル容器(プラスチック製・つげもの用容器)

5 混合作業
①前記、第一材料を作業用容器(写真②参照)に入れ、ジョウロウで散水、スコップで撹拌、水分量は手で握ると固まり、手を開くとほぐれる程度とする。
これをビニールシートに移し、山積しておく。(第一混合物)
②前記と同様、第二材料を散水撹拌、第一材料より若干多い目の水分量とする。これを別シートに山積しておく。(第二混合物)
[参考]
肥料作りの一番の決め手は、水分量の加減にある。散水の方法は一回に多量の水を加えずに、少量を数回に分け、散水撹拌することである。

6 堆積作業(図示⑧)
①容器の底面に湿気のない油かす3㎝程を平らに敷く。
②その上に第二混合物四分のμを重ね、平らに敷く。
③その上、中央に第一混合物を山形に積む。
④第二混合物、残り四分の三を第一混合物の上に覆い、大福餅様に包む。
⑤その上に熔燐少量を、きなこ餅様に散布、さらに稲ワラで覆う。
⑥防虫ネットで容器を覆い紐で縛り、ネット上にコモを覆って倉庫に移し、作業が完了する。

7 発酵過程(記録ノートから抜粋)
 1月6日 作業準備(前記2の作業)(外気温、朝2℃~昼10℃)
 1月7日 材料混合堆積作業(前記5及び6の作業)
 1月9日 容器に触ると熱気を感じる、発酵がはじまる。
 1月15日 容器内の温度、かなり上昇(外気温、朝4℃~昼11℃)
 1月20日 材料の中心部40℃に上昇、こうじ菌の活動がはじまったと思われる。
 1月22日 60℃に上昇、コモ、ネット稲ワラが水滴でびっしょり濡れ水分多く、材料の表面は白く石灰状。高熱で乾燥気味、少し早いが、肥ヤケ防止を兼ね、散水撹拌する。
 1月23日 一層高温となり、散水撹拌、まだ少し水滴が見られる、こうばしい香りが漂う。
1月25日 散水撹拌、温度下る。材料は褐色、原形は見られなくなる。
 1月26日 酵母菌散布時期。材料にイースト菌2gと白糖7g混合水、黒土*刑9、*過石捌9を加え撹拌する。
 1月27日 温度、再上昇気味。午前、午後に撹拌し、温度を下げる。
 1月28日 右同じ。温度降下、水分なくなる。
 1月29日 表面から内部にわたり白色、大小ボール状の玉が現れる。切り返し撹拌する。
 1月30日 ゴマ塩状の発酵肥料が完成。中ノ上質肥料と現認。

四 材料の知識

こうじ=発酵促進、糖化作用を助長
コウラン=1右同様、発酵促進剤
落葉=落葉の中に生息する微生物の活用、好気性
酵母=酵母菌活動を助長
発酵促進
熔燐=草木灰と同様、腐敗防止
黒土=土壌病害防止
稲ワラ=納豆菌の活動を促進
こも=むしろと同様、納豆菌の活動を促進
魚粉=腐敗しやすく、少量肥料作りには不適
硫安=熔燐と悪化学反応のおそれあり、使用しない

五 肥料作りの容器について(案)

肥料作りの理想は、前記したとおり、納屋の土間に大量の材料を山積し、むしろを覆って作る方法が最適だが、通常、不可能なことである。
しかし、少量の肥料作りの参考資料はなく、家庭用の生ゴミ肥料(*脳菌)作り程度のものである。
そこで私の経験から、材料の数量に適応する容器を、次のように定めている。
その設定は、材料109を基準に、容器の底辺(直径)と高さ(深さ)の比を4対6とし、10㎏増すごとに反比例すると定めたものである。
即ち、材料の数量が多くなる程、容器の底幅を広く、高さは短くする。
その理由は、深い容器ほど酸素不足となり、腐敗する可能性が大である。
1 材料10㎏11底辺4対6高さ
2 材料20㎏11底辺5対5高さ
3 材料30㎏11底辺6対4高さ
なお、容器の材質は木製の桶が最適である。

おわりに

長年にわたり肥料作りをしていても満足する肥料はできないものである。
私が肥料作りに真剣に取り組みはじめたのは、平成九年のことである。
その年の春、家内が草花に施す肥料が欲しいとのことで、私は草花用なら最低質の肥料で十分と判断し、家内には黙ってその肥料を与えたことだった。
それから数日後、見事な花が咲いたのである。丁度その頃、近所にも同種の花が咲いたので比較できたのだが、花は大輪、花色は濃くてよく冴え、素晴らしい花であった。
質の落ちた肥料と知らない家内は、私に大感謝で、近所の入達からほめられるやら、まさに花咲か婆さんとなり、鼻高々であった。
誰より驚いたのは私である。びっくり仰天し、改め発酵肥料の効果を認識したのである。
この年を機に、毎年肥料作りに励んだが、最近では、在庫もあり、それに加え気力も鈍ってきたのか、作る回数も少なくなってきたのだが……。
今年の本芽会で優勝された誰かさんのように、次は無肥料作りに挑戦したいと思う、今日この頃である。
なお、この記事は、原稿締切り間近になって急きょ仕上げたもので、省略箇所も多く、理解できないところもあると思われますが、そのところご容赦ください。

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学校での寒蘭展示と高校生の感想
岩本 孝之

 昨年は寒蘭の花の当たり年で、我が温室では七十近くの花がつきました。その中からましなものを十二鉢選んで、本花展に持っていきました。木の根っこに山ゴケで植えた『南雪』が文人作りで優勝! これは花の作より入れ物の工夫によったものでしょう。蘭作りも遊びですから、色々楽しい工夫があればいいと思います。

花が咲いたら入に見てほしいと思うのが人情です。私は高校教師ですので、学校の会議室を借りて先生や生徒に見せました。「園芸も日本の文化だと思うので、ぜひ若い人に見てほしい」というような宣伝パンフを作って配布しました。例の『南雪』や『豊雪』、『大泉』、『神竜』、『桃里』、『虹竜』、『紀の夕霧』など二十鉢余りを机の上に千鳥様に配置しました。

さっそく俳入の校長さんが来て、例の『南雪』を見て「寒蘭を木の根に文入作りかな」と一句詠んでくれました。生徒が見に来たのは昼休みと放課後で、ほとんどが女子でした。一番人気は『豊雪』です。クリームがかった白がなんともいえないようです。華道部の女子が「これ(豊雪)、私が卒業して一人前になったらください」というので、思わず「よっしゃ」と約束してしまいました。彼女は今も覚えているでしょうか。

ほとんどの生徒にとって東洋蘭を見るのは初めての経験でした。洋蘭の華やかさはないものの、独特の色合いやたたずまいに、それぞれ感じるものがあったようです。以下に、数人の感想を紹介します。

○ 寒蘭を初めて見ました。とても、いい香りがしました。先生が言うように、あまり派手ではありませんが、地道に咲いている花のような感じで、とても味わい深かったです。一つ一つが微妙に違っていて、一番心に残っている寒蘭は、木が植木鉢代わりみたいになっているもの(南雪のこと)でした。自然って感じがして、すばらしかったです。(一年○田○穂)

○ 今までに寒蘭というものを見たことがなく、会議室に行くまでは洋ランのように派手なイメージしかありませんでした。しかし、実際見た寒蘭には、派手さこそないものの、存在感をアピールするような独特の雰囲気がありました。蘭といえば洋ランを思い摩かべていた私ですが、寒蘭を見た今では、日本の寒蘭もまたいいなあと感じています。(一年○尾○文)

○ 想像していたものとは違っていたけれど、派手さのない蘭が日本らしい感じがして、とても素敵に見えました。(一年○口○織)

○ 蘭は今まで大きくて豪華な洋蘭のカトレアしか知りませんでした。今回、初めて東洋蘭を見て、清らかな香り、いろいろな蘭の花の模様から、とても優雅な感じがしました。花の色は紅色や淡い黄色で落ち着いた色の感じで、洋蘭と比べると東洋蘭は大入っぼくて、とてもきれいだと思いました。(二年○田○瞳)

○ 寒蘭を見たのは初めてでした。派手さはなかったけれど、とてもきれいだと思いました。特に数万円するというコケが生えたの(南雪のこと?)は特にすごかったです。(二年○田○美)

○ 最初に寒蘭を見たとき、思っていたよりもすごく小さく可愛らしい花だなあと思いました。それから寒蘭の値段を聞いたとき、とても驚きました。そしてあんなに高価な花をたくさん買っている先生もすごいと思いました。私も寒蘭を見つけたいです。ふだん見ることができない花をあんなにたくさん見ることができて、よかったです。今回の展示会は、私にとってとても貴重な体験になりました。ありがとうございました。(三年 ○真○枝)



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関西寒蘭会会誌編集部