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寒蘭の造形美

木村邦夫

はじめに

私が初めて土佐展にお邪魔したのは、昭和49年11月電気ヒルでの本部展であった。まず黒岩さん出品の室戸錦、桃紅、燦月に心を奪われたのである。次に友人に紹介されて上田さんに会うことが出来。 「入蘭一体」を想わせるような上田さんの入柄にいたく感動し、15年後の今日まで親交が続いている。

このような蘭と人間との出会いが、何事にも飽きやすい私を虜にして放さないのである。

この15年間における寒蘭会の移り変わりは随分目覚ましいものがあったように思う。

土佐寒蘭会発行の「寒蘭」58号を見ても、土佐寒蘭会50周年記念号(64号)にしても、今拝見すると立派な作品もあるにはあるが、全体的には残念ながら美術品としての評価は、未だしの感なきにしもあらず、というところである。

例えば、土佐の人の作品ではないが、グラビア写真の中に二、」三鉢ではあるが支柱を立てたのが目についた。またやたらと軸切り葉が多く、中には花軸が垂れ葉と同じように曲がっていたりするので、きびしい言い方かも知れないが作者の審美眼を疑いたくなるような思いがしたものである。

それから六年後の「寒蘭」70号になると、随分様変わりし進歩の跡が見られるようになったのは、嬉しいかぎりである。昔は花だけ、というのもあったが最近では葉も撮影の範囲内であり、中には鉢の上面まで写されているのを見ると、美術品の基礎ともいうべき全体の調和、構図にまで注意が払われるようになり、寒蘭が美術品に近付きつつある証左だと考えられるのである。

このような経過や寒蘭会の現状からいうと儲ける寒蘭栽培から、美術的価値追求への転換期へ入っているように思えるのである。

一昨年だったか、寿楽園発行の「東洋蘭」33号に「東洋蘭の芸術性」と題した、豊野氏のエッセイが載っている。それによると「花の形は造形の妙を見せ、葉姿の美しさは、構成美の極致ではないか」とか、 「栽培者の丹精がなければ植物がそこにある、というだけで園芸美術と呼ばれる対象にはならないのである。そういう意味では栽培者は、東洋蘭芸術の共同製作者の位置に立つもの、といえるであろうしとある。

なかなかの名文であり、人柄が偲ばれて一度お会いできるものなら、と思っている。

寒蘭会にも漸く真の趣味者が増え、寒蘭芸術論が台頭してくると、いずれ近いうちに盆栽同様、上野美術館において、 「寒蘭美術展」が開かれることも夢ではなさそうな気がする。

一、寒蘭とは如何なる美術か

美術という言葉が出てくると、芸術とはどう違うかという疑聞が生じるかも知れない。辞書を引くと、芸術と美術とは同義語のようになっているが、今日では芸術を分類して、造形、表情、音響、言語の四部門に区別されているのである。

(1)、造形部門には彫刻、絵画、工芸、書、建築、その他。(2)、表情部門には舞踊、演劇、働、音響には音楽。倒、言語には文芸、ということになる。

このように分類ずると、音響、言語部門は芸術ではあるが美術とはいえない。そうすると.寒蘭は当然造形の範購に入るのであって、彫刻と同様空聞明、立体的、具象的性格を具えた美術、ということになる。

高村光太郎は、美術の定義をつぎのように規定している。それは「造形的自律の小宇宙」、と言い切っているのである。

簡単に補足すると、美術は他からの支配を脱し、個性豊かな美を創作することである。と私は解釈している。

この、簡単な美術の定義を最も忠実に表現しているのは、水墨画ではなかろうか。大きな画面の、左半分位に画かれた宮本武蔵の「鳴鸚の図」を思い起こしてほしい。表現は省略が多く実に簡単で、右半分は余白といってもよい。この余白は観る入に補ってもらう、というのが画家の本音であろう。

一鉢の寒蘭の影に西谷の山や、足摺岬、桂浜から広がる洋上に、かつを船が見えたりする。この連想が、高村光太郎のいう「小宇宙」ということになるのであろう。

君子といわれる気品高き寒蘭が大株に仕立てられては、茅の群生にも似て残念におもう。真の寒蘭愛培家なら豪華絢燗をねらわず、佗び寂びこそ最高の美的価値と考えるべきであろう。佗び寂びは俳諧の世界にも共通するもので、私達は、肩を張って歩きたいような気がする。

四君子の一つに称えられる菊にしても、あれだけの手数をかけ豪華に仕上げようとする心が見え見えでは、水墨画に見るような余白(心の余裕)が窺えない。却って淋しい思いがするものである。

また、何十年何百年の歳月をかけ、造形技術が見事に盆上に凝縮され、自然と人間が潭然一体となって創り上げた盆栽は造形美の極致であろう。一歩先に歩んでいる盆栽家に敬意を表し、我々愛蘭家も早く追いつきたいもの、と思うO入である。

寒蘭の美術性を発揮する為には、寒蘭の内蔵している美的可能性を引き出せばよいのである。何回も言うように美術とは、調和と統Oの上に成り立つもの、即ち自生地に咲いたものでも、ある程度の美術性は発揮し得るものの、人知人工を借りなくては、真の美術品にはなり得ないのである。

愛蘭家たるもの大いに知恵を絞って創作的努力を捧げてもらいたい。

二、寒蘭の美的特性(調和と統一)

(1)、調和の美

調和という言葉の中に二つの型がある。一つは近似性のものが調和している場合と、異質性のものが調和する場合とである。

寒蘭の場合は相反するもの、すなわち異質のものが相寄り相補って、調和を図っているように思う。換言すれば調和とは、変化の別名のように思われるのである。

例えば男と女、曲と直、柔と剛の如く異質のものがペアーを組んで方が却って調和は保たれ易い、ということかわかるのである。

あとで詳しく解説する予定であるが、寒蘭一株(バルブ一個)から出ている葉だけを見ても、同じ葉は二枚とないことがわかるのである。各葉とも葉幅、葉長、方向、葉間に大きな差がある。

また、葉はどれもが曲線であるのに、花軸は直線である。この曲と直とが、えもいわれぬ風情を醸し出しているのである。私はこのような異質の調和を「変化の美」と呼ぶことにしている。

この統一という言葉にもいろいろの解釈があろうけれど、寒蘭の場合造形上から言えば、ごく簡単なものと思っている。

上下左右に広がった葉と、、細い一本の花軸が株もとで一つに結合しているのである。すなわちバルブは変化の纏め役になっている。みんながばらばらの存在のように見えるものが中心部に、どっかと腰を据えている一入の棟梁が、すべてを牛耳っているのである。なかなか見事な統制集団といえよう。

調子、リズム、モチーフなど、これらが統一の基礎条件となっているものと思う。寒蘭美術のモチーフは一個のパルプと、そこから出ている数枚の葉である。なおバルブの統制力については「創作の基本」の項にゆずる。

三、創作の基本

ここでは創作の基本として、(1)、変化(調和)、(2)、統1、(3)、余白の三項目に区別して述べることにするが、これらの問題は互いに交錯し合って区別しにくいことが多炉のである。変化あるものが相寄り、統O美を形成しているので、変化と統一は、表裏O体の関係にあるもの、といってよろしかろう。したがって、文中混同している個所の多いことをご了承願いたいのである。

(1)、変化の美

図式その一について説明することにする。葉や木、各部の比を万矩形、(七五調)にかきたかったのである。用紙の縦、横も七と五の割合いに切ったため、木と鉢、花軸と木を同じ七五にするには狭くなって、描けなかったのである。仕方なく木の高さと鉢の高さを同じにしたのである。このため全体の比に統一が欠け、やや、ずんやり型になってしまったのである。

鉢についても上面の直径と底面の直径の比を七対五、花軸の高さと木の高さも七対五にしている。偶然の一致か、奇妙にも日本人の聴覚と視覚σどちらにも、七五調据快く感じられることを知ったのである。

因みに西洋人の聴覚については、知らないが視覚の方は、黄金比といって八対五が美の基準になっているのである。

図式にはO株しか画いてない館、寒蘭のモチーフと思って頂きたい。葉は五枚で三枚と二枚が左右に分かれている。これもO種のアンシンメトリーといえるであろう。日本流にいえば、非相称形といえないごともない。日本の建築では、神社、仏閣は別として、茶室を始め一般住宅にまで数寄屋作りが浸透し、屋根を落棟式にしたり、玄関が横の方へずれていたりする。日本人はこのいびつの中に粋がある、と思うのである。この、粋こそ日本独特の生活文化なのである。十数年前の文化系学年に三角形、三種を好きな順に並べてもらったら(1)、不等辺、(2)、二等辺、(3)、正三角形の順であったことを覚えている。もし相手が小学生であったらこの逆の結果が出たであろう、と思うと少し面白いな、という気がしたのである。

☆葉の変化

五枚の葉をよくみると、五枚とも長さ、葉幅、高さ、方向(垂れ具合)、個性のあることが認められる。

☆葉と花軸の変化 これも何回か述べたところであるが、花軸の直と、葉の曲とが他の植物に比べ際立った調和美を醸していることである。これこそ寒蘭美の絶対的優秀性といっても過言ではあるまい。もしこの優秀性がなければ、私と寒蘭との縁は、切れていたであろう。

さらにこの美を追求すれば、軸の高さと薬の高さの比である。この図で言えば木の高さは大体第四葉(四枚葉なら第三)とすればよい。

葉の高さを一とすれば花軸の高さは、その一・四倍である。これは日本流黄金比で七五調というのである。因みに西洋の黄金比は一・六倍の八五調である。口では七五調と簡単に言ってもいざとなると、そううまくはいかないものである。

そこで樹勢のしっかりした鉢を選び、花芽が少し伸びだした頃から、蘭室の温度並びに湿度をやや高くし、花肥(燐酸系水肥)の三千倍程度を月三回。また花軸の先の方が伸びかけると灌水回数を多く、ルクスは一万以下にした方が湿度の高さとあいまって花軸の伸びがよく、とくに先端部の花聞が開き、花軸と木の高さは七五調以上になるものである。

☆葉と鉢の変化

この写真は、立葉性の「爽風」である。図式そのOの木の鉢の高さを七五調に訂正する代りに入れたものである。ただ鉢の庭面が狭く、安定感がない。底の直径を二・三㎝になって上面との比較は、丁度七五調になるのである。入間の勘というものは、我々が思っている以上に鋭いものである。

☆花間の変化

花闘問題には、二つあると思う。一つは花間の長さの違いであり、二つは花間の軸の屈折であろう。

花間が良いとか悪いとかの立話は、よく耳にするのである。私が考えている花聞の基準は、花間に長短の差があることである。一本の花軸に十数輪もの花が着くと、花と花がせり合い、余白の美などあったものではない。

寒蘭の豪華さを競うなら、エビネ並に何十輪咲いてもよいであろう。それでは寒蘭の特性は消えてしまう。気品を誇る寒蘭なら五~九輪が最高と思うのである。図式は五輪にしたのであるが、花間には注意を払ったのである。

気温、湿度とも高い夜は、よく花間が伸びるようであるし、寒い日が続くと花間は狭くなるもの、ということが考えられる。この花間の長短によって、第一花、二花、三花を線で結ぶと、不等辺三角形になり、花房に余裕(余白)が見られるのである。この不等辺三免形の中に粋を感じる源があるもの、と思う。

つぎは花軸中、花付き部分の屈折の問題である。この屈折部の外角の頂上から子房が反転して開花するのである。

もしこれが反対に内角から出たとしたら、只でされ窮屈な所が一層狭くなり余白美は全くなくなってしまうであろう。

盆栽や生花の世界でもこの内角枝は、最も嫌われ排除されるのである。有難いことに寒蘭の世界では、天がこれを未然に防いでくれているのだから、大いに、感謝せねばならぬ。この現象を簡単に説明しておこう。

太陽の当たる反対側、即ち花軸の裏側に植物成長ホルモンの一種オオキシンが溜り、その部分が脹れ上がるために軸は、・オオキシンのない方(光の来る方)へ折れ曲がるのである。

先ほど有難いと言ったのは、その屈折した外角の頂点から花が咲くように出来ているからである。 (図式その一参照)このことも私を虜にしている原因である、と思っている。

☆開花の方向

愛蘭家の集っているところでは、一方咲きとか、四方咲きとかいう言葉もよく耳にすることがある。寒蘭を立体美術と考える以上、一方咲きでは平面的で鑑賞の対象にはなりにくいであろう。

といって四方咲きなら最高とも言いにくいのである。寒蘭を象徴的な小宇宙と見るなら、更に一歩後退して、立体美術の最小限度である三角錘形にするのが理想であろう。簡素美の極限である。三方咲きこそ、花向きの基本である。

具体的に言うと第O、四、七花が前向きに開花し、第二、五花は左後向き、第三、六花は右後向き、ということになる。

もちろん前向きの三輪が縦に一直線の列を作るのではなく、少しずつずれのある方が、変化の美からいってより望ましい。図式その一の第一花と四花が前向きであるが第四花は大分左へずれている。でも、これぐらいのずれのある方が余裕があって面白かろう。

☆軸切り葉、軸切り子房

五枚の葉をよくみると、五枚とも長さ、葉幅、高さ、方向(垂れ具合)、個性のあることが認められる。

☆葉と花軸の変化

これも何回か述べたところであるが、花軸の直と、葉の曲とが他の植物に比べ際立った調和美を醸していることである。これこそ寒蘭美の絶対的優秀性といっても過言ではあるまい。もしこの優秀性がなければ、私と寒蘭との縁は、切れていたであろう。

さらにこの美を追求すれば、軸の高さと葉の高さの比である。この図で言えば木の高さは大体第四葉(四枚葉なら第三)とすればよい。

葉の高さを一とすれば花軸の高さは、その一・四倍である。これは日本流黄金比で七五調というのである。因みに西洋の黄金比は一・六倍の八五調である。口では七五調と簡単に」言ってもいざとなると、そううまくはいかないものである。

そこで樹勢のしっかりした鉢を選び、花芽が少し伸びだした頃から、蘭室の温度並びに湿度をやや高くし、花肥(燐酸系水肥)の三千倍程度を月三回。また花軸の先の方が伸びかけると灌水回数を多く、ルクスは一万以下にした方が湿度の高さとあいまって花軸の伸びがよく、とくに先端部の花間が開き、花軸と木の高さは七五調以上になるものである。

☆葉と鉢の変化

この写真は、立葉性の「爽風」である。図式その一の木の鉢の高さを七五調に訂正ずる代りに入れたものである。ただ鉢の庭面が狭く、安定感がない。底の直径を二・三㎝になって上面との比較は、丁度七五調になるのである。入間の勘というものは、我々が思っている以上に鋭いものである。

☆花間の変化

花閥問題には、二つあると思う。一つは花間の長さの違いであり、二つは花間の軸の屈折であろう。

花間が良いとか悪いとかの立話は、よく耳にするのである。私が考えている花聞の基準は、花間に長短の差があることである。一本の花軸に十数輪もの花が着くと、花と花がせり合い、余白の美などあったものではない。

寒蘭の豪華さを競うなら、エビネ並に何十輪咲いてもよいであろう。それでは寒蘭の特性は消えてしまう。気品を誇る寒蘭なら五~九輪が最高と思うのである。図式は五輪にしたのであるが、花間には注意を払ったのである。

気温、湿度とも高い夜は、よく花間が伸びるようであるし、寒い日が続くと花間は狭くなるもの、ということが考えられる。この花間の長短によって、第一花、二花、三花を線で結ぶと、不等辺三角形になり、花房に余裕(余白)が見られるのである。この不等辺三角形の中に粋を感じる源があるもの、と思う。

つぎは花軸中、花付き部分の屈折の問題である。この屈折部の外角の頂上から子房が反転して開花するのである。

もしこれが反対に内角から出たとしたら、只でされ窮屈な所が一層狭くなり余白美は全くなくなってしまうであろう。

盆栽や生花の世界でもこの内角枝は、最も嫌われ排除されるのである。有難いことに寒蘭の世界では、天がこれを未然に防いでくれているのだから、大いに、感謝せねばならぬ。この現象を簡単に説明しておこう。

太陽の当たる反対側、即ち花軸の裏側に植物成長ホルモンの一種オオキシンが溜り、その部分が脹れ上がるために軸は、・オオキシンのない方(光の来る方)へ折れ曲がるのである。

先ほど有難いと言ったのは、その屈折した外角の頂点から花が咲くように出来ているからである。 (図式その一参照)このことも私を虜にしている原因である、と思っている。

☆開花の方向

愛蘭家の集っているところでは、一方咲きとか、四方咲きとかいう言葉もよく耳にすることがある。寒蘭を立体美術と考える以上、一方咲きでは平面的で鑑賞の対象にはなりにくいであろう。

といって四方咲きなら最高とも言いにくいのである。寒蘭を象徴的な小宇宙と見るなら、更にO歩後退して、立体美術の最小限度である三角錘形にするのが理想であろう。簡素美の極限である。三方咲きこそ、花向きの基本である。 ・

具体的に言うと第一、四、七花が前向きに開花し、第二、五花は左後向き、第三、六花は右後向き、ということになる。

もちろん前向きの三輪が縦に一直線の列を作るのではなく、少しずつずれのある方が、変化の美からいってより望ましい。図式その一の第一花と四花が前向きであるが第四花は大分左へずれている。でも、これぐらいのずれのある方が余裕があって面白かろう。

☆軸切り葉、軸切り子房

盆栽界では幹切り枝は許さない、というのが原則である。寒蘭界ではこれが通用するか、しないかは難しい問題であろうが、この精神だけは生かしたいものである。

見る方向(正面)を変えるとか、事前に葉をよじるとかしておくべきものと思う。立派に伸びた花軸が三、四か所も袈裟切りにされているようでは、見る方も痛みを覚える。

さらにいやに思うことは、奇花ならともかく子房が軸を切って後ろ向きに咲くことである。これは「白楽天」のような短子房の種類に起こり易い現象である。これでは花間の美も、不等辺三角形咲きの粋もあったものではない。

この状態から正常位に矯正するには、反転を始めた頃から片手の指でしっかりと根元を固定し、他方の手の指で子房の反転を助長してやるのである。この矯正法は何回も繰り返すことによってのみ効果を発揮するものである。

ご承知の通り子房の反転とは、子房が、花軸から離れるにしたがって横.(左右どちらへでも)へ百八十度回転することをいうのである。このとき、花の主弁が真上をさすようにしてやらないと醜さがのこる。

☆花軸の直立

直立の必要性については前述通りで、方法についても少し触れたところである。花軸の直立方法として、場所を変えたり、鉢回しをしている話は、よく聞くところである。

私の方法は太陽光の調節だけで他のことは、全然していない。東側と西側は年中薄いカンレイシャニ枚を張りつけたままである。ただ南側だけは、北側から入ってくる光度と同じにするため、光度計(カメラ用)を使って調節に努めているのである。これだけのことで九月中旬から伸びかけている曲がりくねった花軸が閉花期ともなれば、素直に直立しているのである。蘭室には午前中のみ、あるいは午後のみと、半日しか陽の当たらないものがある。

このような蘭室には、.反対側にアルミ箔とか、白紙などを張って反射光を利用するのが賢明な方法であろう。

☆花軸の二本立ち

昔の蘭作家は腕を誇るかのように二、三本立ちの出品は珍しいものではなかった。私自身も、花軸二本立ちの「金鸚」を関西展へ出品したことを覚えている。

それが最近では寒蘭に対する美意識が変わったせいか、図式その二に示すように、二本立ての難しさがわかったためか、二本立ちの出品が減ったことは確かである。

とはいっても二本立てが様にならぬ、とは思いたくない。二本立てを調和よく仕立てるには万矩形の原理を利用し、高さの差を七・五にすることである。二本を狭い鉢に並立させることは、いくら七五調の原理に吐っていても、近付きすぎれば余白に欠ける。そこで短軸を斜に倒す方法である。(図式その二参照) これも結局は七五調原理の応用に他ならない」方法としてはやや大株(七、八本立ち)を選び、二本の花芽が上がったら、小さい方を切り取り三本めを待つのである。この間二週間程で次の芽が出、大きくなれば適当な段差になった記憶がある。

また、花芽四本立ちのときは中の二芽を取り除けば、図式その二のB型のような段差の大きいものになる。

ここで図式その二の説明をしておきたい。先ずA図では、長軸を直立させ、その株元から左方へ点線を引く。この点線を花軸の高さの一・四倍のところで止める。この止めた点と長軸の頂点とを点線で結ぶと、横長の直角三角形が出来るのである。

つぎに、短軸の頂上花を左右に移動させ、斜線上に重なった所で停止させるのである。とにかく斜線上に重なればどこで固定させても二つの花軸は七五調の理に叶い、完全に調和するのである。

何故なればここの三角形の底辺の任意点から直角に線を引き、斜線に交わった所の左に、二つ目の直線三角形が出来る。この二つの三角形は相似形であり。どちらも矩形の半分であるため視覚的には、金く同一のものと映るのである。

B図の方はA図を縦にしただけの違いであり、原理に変わりはない。

☆鉢色の問題

寒蘭用の鉢には黒色が多いようである。これにも理由があるものとおもう。すなわち、黒は白己主張をせず、他の活かす色である。さらに気品高き色として昔の人は勿論、現代の若者もこれを認めている。

日本の絵画の世界には水墨画が多い。これは、墨色はすべてての色を匂含した色であり、水墨画の線画法は、具象の抽象化法としては最高の技法であり、含蓄の深い表現といえるであろう。言い方を変えれば佗び寂びに直結する高度な省略画、ということが出来るであろう。水墨画の世界と寒蘭の美は、軌を一にしているようで、心強く思うのである。

最近寒蘭界においても黒鉢だけに頼らず、色鉢への志向が高まりつつあるようにおもわれる。これについて私は、二つの方法を考えているのである。

その一つは同系色、すなわち緑鉢の使用である。衣服で一言えばトータルファッシ冒ン、ということであろうか、緑鉢といっても淡色の方がよく合うのでは、ないかと思う。

また、淡色の緑の地にプルーでかかれた線画の鉢も、調和のよいものである。最近東洋蘭展で席飾りの中に、蘭の色紙などが掛かっていると、調和上果してこれでよいのか、と迷うことがある。

つぎに、調和のよい色と言えば、補色(反対色)の鉢であろう。無難な色としては、緑葉に対する赤紫鉢(鳥泥鉢)、葉の色を青緑と見れば赤色(朱泥鉢)の鉢で渋味の強い鉢の方が調和がよい、と考えている。

また、鉢の形についても今までの筒型に変えて平鉢にするもまた串興かと思う。私も実験の意味で一鉢だけ試みている。まだ、花は咲かないものの作は、悪くないものの作は、悪くないようである。深さ8㎝、横30㎝、縦21㎝の矩形の常滑鉢であるが、よく釣り合っている。数を増したいと思うが置き場所がない。

日本美術において統一美など、というと非常に難しく考えるのであるが、簡単に言うと表現に中心(モチーフ)があり、.その部分が、全体を締め括っているからこそ、纏まった美が講成されている。と考えている。

寒蘭の場合花時になると、花が全体を支配している、と見る人もあろうが、鉢まで入れてよく観ると、どうしてもその中心は株にある、と言いたくなる。花も木も鉢もすべて株へ集中されてい-26一る、と思うからである。

☆株の統一

図式その三は株の様相次第で、美的評価にいかに大きい差が生じるかを示したものである。一列株は平面的で上部を見なくとも、立体性に欠けていることは、想像がつく。

円形株は毎春出る奴芽の右(向かって)を外せば、バルブは時計と同じ方向へ回って円形株になるものである。しかしこれは肝心の中心がなく、やや統制力に欠けるのである。 三角株はよくある株で、初年度に力強い親木を一本植えにしておくと、翌春新子が一本発芽し、翌々春には奴芽が出る。順調に行けばその年の秋には、開花の運びとなる。

この姿こそ最も簡素で、立体美、統一美共に豊かな美術性の高い寒蘭が、創作されることになるのである。 統一の点から考えると、日本画、洋画は勿論音楽であっても、調和、統一、調子、モチーフなどは大切な基本的要素である。寒蘭の世界に於いても表現の基礎をどこにおくかによって、その美術性の評価が左右されるもの、と思うのである。

☆花色、花形

これは展示会でよく閤題になり、しかかも各人意見の異なるところである。寒蘭に本来の色とか形があるののかどうか。

プロは申すもがな、アマチュアでも色上げに夢中になっている入が多い。人の知恵が進むにつれて益々多様化するのは当然であろう。このような複雑な現実を知り尽くすことは、不可能という外ないであろう。

このように見てくると、審査の絶対的基準など、ある筈がない。そこで私が言いたいことは、客観的主観に頼るより外、道なし、である。

このような言葉は人から聞いたこともないし、自分で使ったこともない。結局は主観に頼るしか外に方法がない、との意である。その、主観を決定する前擾として、客観的に蘭を見る目を養い、広い、視野を持った主観に従う、ということである。

日本画の特徴は線描画であると同時に余白美を有することである。洋画のように隅から隅まで塗りつぶすのではない。余白部の補足は観賞者にまかすのである。省略に省略を重ねたところに水墨画の最大の魅力が生じるのであるQ

今日の日本の美術展は、殿堂芸術に様変りして作品も大作が流行している。寒蘭展ではいくら大きなものを並べようとしても、そこには限度がある。

作品の大小は問うところにあらず。調和と統一の原理のうえに、さらに、日本美術の基本である、余白の技法を加え、立派な寒蘭美術が創作出来れば、人生の生き甲斐ここに在り、と願いたいのである。

野生のものは別としても、棚の寒蘭は、白身の意志だけで育っているのではない。作家の知恵と愛情に応えて、立派に花を咲かせているのである。

木や鉢が汚れているのを見たり、最上の欠点が見えたりすると「あなたの愛情と研究が足りないからよ」と反省を求められているように思われることが、しばしばである。

無我の境に立って創作した寒蘭には蘭と人との区別はない。人か蘭か、蘭か人か、同心一体の感を深くするものである。

蘭を見てわが振り正せ、「育蘭被教蘭」とは、よく言ったものと思うのである。

古希を過ぐること五年、いつ死んでも悔いのない身でありながら、蘭のある限り「我生共蘭」の希望が湧くのである。蘭の為にも信分の為にも恥ずかしくない一生を送りたいもの、と願っている。

(元、神戸大学教授)
(前関西寒蘭会会長)

(土佐愛蘭会会誌71号に掲載されたものを土佐愛蘭会のお許しを得て再録)